1960年代半ばからアメリカ西海岸では、ヒッピーが急速に増え始めた。
愛と平和、そして自然とセックスを大事にする彼らが、その象徴として花を身に着けていたことから、ヒッピーの主張や運動は「フラワー・ムーブメント」と呼ばれた。
彼らの文化は音楽とも密接に関わりを持ち、グレイトフル・デッドやジェファソン・エアプレインといったバンドに多大な影響を与えている。
1967年の6月にはカリフォルニアで「音楽と愛と平和」を掲げたモンタレー・ポップ・フェスティバルが開催され、ヒッピーを中心におよそ20万人が参加した。
このフェスのためにママス&パパスのジョン・フィリップスが書きおろし、スコット・マッケンジーが歌った「花のサンフランシスコ」は、ヒッピーのテーマ曲ともいえるものだった。
フラワー・ムーブメントは最盛期を迎え、この年の夏は「サマー・オブ・ラヴ」と呼ばれるようになる。
サンフランシスコに行くなら
髪に花を飾っていこう
サンフランシスコに行けば
平和を愛する人たちに出会えるはず
ヒッピー文化が広まった理由のひとつは、泥沼化していったベトナム戦争だ。
ジョンソン大統領は1965年、北ベトナムに大規模な爆撃(北爆)をするとともに、20万人もの兵を派遣する。しかし、北ベトナムのゲリラ作戦によって戦況は膠着状態が続き、共産主義の悪魔ベトコンというイメージが作られ、悪魔の掃討に若者たちが狩り出されていった。
反共の嵐がアメリカ中を吹き荒れて、徴兵された若者たちは軍の閉鎖された環境の中で、徹底的にベトコンを悪魔として憎んで殺すようにという教育を受けて戦場に送り出された。
そうしたベトナム戦争への批判が高まる中で、首都ワシントンのリンカーン・メモリアル公園に10万人の人々が集まり、アメリカ国防総省の本庁舎ぺンタゴンまでのデモ行進が行われたのは1967年10月21日のことだった。
デモの発起人だったアビー・ホフマンは、2千人で手を繋いでペンタゴンを取り囲むことによって、ペンタゴンを浮上させて悪の魂を振り払う(!)という常識外れな計画を立てた。結果は言うまでもなく、ペンタゴンは浮上せず失敗に終わる。
しかし、ぺンタゴン前に集まった人々のデモは続き、夜になっても大勢が坐り続け、徴兵カードを燃やすといった行為で反戦を主張した。現場に配置された大勢の州兵による警備隊とデモ参加者の衝突もあちこちで発生し、逮捕される者も現れた。
それでもデモの勢いが衰えることはなく、いつ警備隊が発砲しても不思議ではない一触即発の状態が続いていた。
そんな中で1人の若者が銃を構える警備隊に近づき、州兵が突きつけたM14ライフルの銃口に、1本ずつカーネーションの花を差していった。
自分に向けられた銃口に花を挿すという勇気ある行動によって張り詰めていた緊張の糸は切れ、他のヒッピーたちも次々と目の前の銃口に花を挿していった。
このとき撮られた歴史的な瞬間の写真は「フラワー・パワー」と名付けられ、その年のピューリッツァー賞にノミネートされる。この出来事によって、彼らは「フラワー・チルドレン」と呼ばれるようになったとも言われている。
サンフランシスコに行くなら
髪に花を飾っていこう
サンフランシスコに行けば
平和を愛する人たちに出会えるはず
若者たち10万人による大規模なデモはニュースで大きく取り上げられ、アメリカ国内の世論に少なからず影響をもたらした。世論の支持を失ったジョンソン大統領はその後、北爆を中止して次期大統領選への出馬も断念、政界を引退することとなるのだった。
彼らのデモは国内にとどまらず、世界中の若者たちにも影響を与える。南ベトナムを支援していた日本では翌年、10月21日を国際反戦デーとして、ベトナムへと燃料が運ばれるのを阻止しようと、新宿を中心に大規模なデモが実施された。
国中に広まっていく
この不思議な振動
人々はその運きの中へ
(このコラムは2015年10月21日に公開されたものです)
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