「本物の音楽」が持つ“繋がり”や“物語”を毎日コラム配信

TAP the POP

TAP the SCENE

ブライアン・ジョーンズ/ストーンズから消えた男〜すべてを失いながら彼は1969年に伝説になった

2024.07.03

Pocket
LINEで送る

『ブライアン・ジョーンズ/ストーンズから消えた男』(Stoned/2005)


ロックの歴史を振り返ろうとする時、1969年は非常に意味深い年として捉えられることが多い。

それは激動の60年代最後の年であるばかりでなく、ビートルズの実質的なラストアルバムがリリースされた年であり、愛と平和と自由の象徴ウッドストックの開催と、それを覆したオルタモントの悲劇が起き、のちにイーグルスが「ホテル・カリフォルニア」で「1969年以降、私どもはそうしたお酒(Spirit/精神)は用意しておりません」と歌った年。

そして、忘れられない出来事はブライアン・ジョーンズが亡くなったこと。彼の死は、60年代のポップスターやロックスターの相次ぐ死の始まりでもあった。

翌年にはジミ・ヘンドリックスとジャニス・ジョプリン、翌々年にはジム・モリソンやデュアン・オールマンが亡くなっていく。ブライアンの死は、一つの時代の終わりを静かに告げていた。1969年7月3日、自宅のプールでアルコールとドラッグの過剰摂取による原因で溺死。享年27。

『ブライアン・ジョーンズ/ストーンズから消えた男』(Stoned/2005)は、ブライアン・ジョーンズの事故死を“他殺説”の観点から描いた問題作だった。

死の直前まで一緒にいた住み込みの建設業者フランク・ソログッドが1993年に「ブライアンを殺したのは私だ」と告白。事実関係を検証する前に病死してしまったので謎のまま封印されたが、監督のスティーヴン・ウーリーが10年の歳月のリサーチを経て、この説を映画化した。

1962年のロンドンでローリング・ストーンズは結成されるが、その創始者/リーダーは紛れもなくブライアンだった。数々の楽器を弾きこなす音楽スキルの高さ、男女の垣根を飛び越えた斬新なファッションセンスは、メンバーの中でも最も強いカリスマ性を放った。

この金髪の美少年の前では、ミックもキースも垢抜けない子供のように見えた。まだボトルネックが何なのかイギリスでは誰も知らない頃から、ブライアンは見事にスライドギターをものにしていた。

1965年9月、そんなブライアンに運命の出逢いが訪れる。ドイツ公演でモデル/女優のアニタ・パレンバーグと恋に落ちるのだ。似た者同士の二人は意気投合し、スウィンギング・ロンドンを象徴するカップルとなる。

しかし、ストーンズのソングライターやフロントマンは今やミックとキースで、そのことがブライアンを傷つけ孤立させてもいた。ポップスターとしてドラッグカルチャーに入り込む(逃げ込む)のも必然だった。

1967年。ブライアンとアニタとキース、運転手兼ボディガードのトム・キーロックは、イギリスでの体制とのトラブルから逃れるためにモロッコの旅へと出向く。

一方でアニタとの関係はストレスが悪影響して旅の途中で決定的に崩れ去り、遂に彼女は心を寄せていたキースを選んで逃避行を決断。民族音楽のジャジューカを録音する成果は生まれるものの、すべてを失ったブライアンの心はズタズタだった。

1968年11月、ブライアンはサセックス州ハートフィールドの家を購入(以前は『くまのプーさん』の著者A.A.ミルンが所有)。ツアー・マネージャーに昇格していたトム・キーロックは家の内装や庭の工事をフランク・ソログッドに一任するが、実態はブライアンの世話役だった。

愛するアニタを失って以来、酒やドラッグに浸り切るブライアンは、新しいガールフレンドを呼びつけては虚しい現実逃避の日々を送っていた。

もはやスタジオやツアーといったバンドの活動もろくに機能せず、散財するだけのブライアンに、ミックとキースは解雇を言い渡す。10万ポンドとストーンズが存続する限り毎年2万ポンド支払うことが条件づけされるが、ブライアンは自分が作ったバンドさえも失ってしまったのだ。フランクも用無しになって失意に至る。そしてある夜、“その時”は起こった……。

改めてブライアンがいた頃のストーンズの演奏に耳を傾けてみる。その印象的な曲の数々には、あらゆる楽器を弾きこなして“色気”と“魂”を注ぐブライアンの姿が見えてくる。

「Walking the Dog」のあの声も、「Little Red Rooster」や「No Expectations」のスライドギターも、「Paint It Black」のシタールも、「Lady Jane」のダルシマーも、「Ruby Tuesday」のリコーダーも、「Under My Thumb」のマリンバも、すべてブライアンの魔法のおかげだ。

今、ストーンズというとミックとキースを思い浮かべる人が多いだろうが、当時は大抵の人はブライアンと答えただろう。彼にはスタイルがあった。彼にかかると“粋”が本当に輝いて見えた。ブライアンは弱くて、悩みを抱え、時には人をうんざりさせたが、彼こそがバンド名を考え、最初にプレイするものを選んだ。僕らはブライアンのバンドで、彼がいなかったら、駆け出しのブルーズ・グループが世界最強のロックンロール・バンドにはなれなかっただろう。

──ビル・ワイマン

予告編


晩年はモロッコの民族音楽を録音していた

ブライアンの数ある魔法の一つ。「No Expectations」でのスライドギターのプレイ。

ローリング・ストーンズ、1964年の伝説のデビューアルバム。ブライアンこそが最初のローリング・ストーンだった。●この商品の購入はこちらから
mzi.qtiyylpq.600x600-75
51JHK7Nlg7L

『ブライアン・ジョーンズ – ストーンズから消えた男』


●Amazon Music Unlimitedへの登録はこちらから
●AmazonPrimeVideoチャンネルへの登録はこちらから

*日本公開時チラシ
145425_2
*引用/『ローリング・ウィズ・ザ・ストーンズ』(ビル・ワイマン著/小学館プロダクション)
*このコラムは2016年3月に公開されたものを更新しました。

評論はしない。大切な人に好きな映画について話したい。この機会にぜひお読みください!
名作映画の“あの場面”で流れる“あの曲”を発掘する『TAP the SCENE』のバックナンバーはこちらから

【執筆者の紹介】
■中野充浩のプロフィール
https://www.wildflowers.jp/profile/
http://www.tapthepop.net/author/nakano
■仕事の依頼・相談、取材・出演に関するお問い合わせ
https://www.wildflowers.jp/contact/

Pocket
LINEで送る

あなたにおすすめ

関連するコラム

[TAP the SCENE]の最新コラム

SNSでも配信中

Pagetop ↑

トップページへ