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ザ・フォーク・クルセダーズと加藤和彦に発見されて、新しい生命を吹き込まれた寺山修司の「戦争は知らない」

2020.05.04

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「戦争は知らない」は稀代の詩人にして劇作家、昭和が生んだ元祖マルチ・アーティストの寺山修司が、おそらくは最初に作詞を手がけた楽曲である。

幼い頃に父を戦争で亡くしている歌詞の「私」は女性だが、当然ながら作者の寺山自身が投影されている。

青森県警弘前署の刑事だった父の寺山八郎は招集されて出征した後、太平洋のセレベス島でアメーバー赤痢にかかって戦病死した。
残された母と子のもとに送られてきたのは骨壷だけ、その中に入っていたのは石ころと枯葉だった。

名前も知られていない野に咲くに花には、”戦で死んだ悲しい父さん ”だけでなく、同じように生命を奪われた戦死者たちの無念と、父を奪われた子どもの悲しみが託されている。

これを作曲したのは大阪のGSグループ、リンド&リンダースの加藤ヒロシである。
オリジナルのレコードで歌ったのは、大阪を地元にしていた歌手の坂本スミ子だった。

「ラテンの女王」として知られて坂本スミ子は、1961年から1965年までNHK紅白歌合戦に5年連続で出場したが、そろそろ路線変更を迫られていた。
そこで意外とも思われたフォークソング調の「戦争は知らない」に挑戦したのである。

しかし1967年2月に東芝レコードから出たシングルは、残念ながらまったく不発に終わった。

人気司会者だった栗原玲児と1966年に離婚した直後で、しかも30歳を過ぎていた坂本スミ子に、”♫ いくさ知らずで二十才になって 嫁いで母に母になるの”という歌詞はそぐわなかったのだ。

戦争は知らない


ちょうどその頃、京都のアマチュア・グループだったザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」が、関西のラジオ局から火がついて大ヒットを記録した。

すでに解散していたフォークルは中心メンバーだった北山修と加藤和彦が、1年だけの期間限定で再結成することにした。
そこからはしだのりひこを加えたトリオで、プロとして積極的に音楽活動を行ったのだ。

その活動のおかげで、埋もれかかっていた「戦争は知らない」がよみがえることになった。
1968年の7月27日に渋谷公会堂で行われたコンサート『当世今様民謡大温習会(はれんち りさいたる)』のなかから、「戦争は知らない」のライブ・テイクが、シングル「さすらいのヨッパライ」のB面に収録されて11月に発売になった。

 

加藤和彦という音楽家は誰も気がついていない名曲を見つけ出す、特別の耳と感性を持っていたようである。
彼は興味をもった作品に出会うと洋楽も邦楽も関係なく、ジャンルなどにも拘泥せず、楽曲の本質をつかんでレパートリーに加えた。

このときはA面がまったくヒットせずに終わったのに、新たな生命を吹き込まれたことで「戦争は知らない」が若者たちに発見されていく。

寺山修司の愛弟子だったカルメン・マキを筆頭に、本田路津子、頭脳警察、加藤登紀子、元ちとせなどのアーティストにカバーされたことで、「戦争は知らない」は一度もヒットしなかったにもかかわらず21世紀にまで歌い継がれている。

そして2009年10月16日に自死するまで、加藤和彦も折にふれて「戦争は知らない」を唄っていた。





(注)本コラムは2015年10月9日に公開されました。





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