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ザ・フォーク・クルセダーズに発見されて新たな生命を吹き込まれた寺山修司作詞の「戦争は知らない」

2015.10.09

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「戦争は知らない」は稀代の詩人にして劇作家、昭和が生んだ元祖マルチ・アーティストの寺山修司が、おそらくは最初に作詞を手がけた商業作品だ。

幼い頃に父を戦争で亡くしている歌詞の主人公、「私」には当然ながら作者の寺山自身が投影されている。

青森県警弘前署の刑事だった寺山八郎は招集されて出征した後、太平洋のセレベス島でアメーバー赤痢にかかって戦病死し、還って来ることはなかった。

残された母と子のもとに送られてきたのは骨壷だけで、中に入っていたのは石ころと枯葉だった。

戦争は知らない 作詞:寺山修司 作曲:加藤ひろし

 野に咲く花の名前は知らない
 だけども野に咲く花が好き
 帽子にいっぱい摘みゆけば
 なぜか涙が 涙が出るの

 戦争の日を何も知らない
 だけども私に父はいない
 父を想えば ああ荒野に
 赤い夕陽が 夕陽が沈む

 戦で死んだ悲しい父さん
 私はあなたの娘です
 20年後のこのふるさとで 
 明日お嫁に お嫁に行くの


名前も知られていない野に咲くに花には、”戦で死んだ悲しい父さん ”だけでなく、同じように生命を奪われた戦死者たちの無念と、父を奪われた子どもの悲しみが託されている。

野に咲く花

これを作曲したのは大阪のGSグループ、リンド&リンダースの加藤ヒロシ、歌ったのはラテン歌手の坂本スミ子だった。
「ラテンの女王」として知られて坂本スミ子は、1961年から1965年までNHK紅白歌合戦に5年連続で出場したが、そろそろ路線変更を迫られていた。
そこで意外とも思われたフォークソング調の「戦争は知らない」に挑戦したのである。

しかし1967年2月に東芝レコードから出たシングルは、残念ながらまったく不発に終わった。

”いくさ知らずで二十才になって 嫁いで母に母になるの”という歌詞は、人気司会者だった栗原玲児と1966年に離婚した直後で、30歳を過ぎていた坂本スミ子にはさすがにそぐわなかった。

B面の「勇士の故郷(ふるさと)」は戦争から20年目が過ぎた日本で暮らす、満州から引き揚げて来た男の歌であり、「戦争は知らない」とは対になっていた。

さみしい納屋の暗がりで わらをたたいている父よ
夜明けのまきを割りながら 軍歌唄っている父よ
はるか はるかに雲のゆくところ
戦士の墓が並んでる

満州よりもせまいけど 麦の青さを踏む父よ
ここがあなたのふるさとだ ここが勇士のふるさとだ
はるか はるかに夕日の沈むところ
あれが明日の地平線


弘前の夕空

ちょうどその頃、京都のアマチュア・グループだったザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」が、関西のラジオ局から火がついて、1967年12月25日に東芝レコードからシングル盤が出ると思わぬ大ヒットを記録して一世を風靡した。

すでに解散していたフォークルだったが、中心メンバーだった北山修と加藤和彦は一年だけの期間限定で再結成し、はしだのりひこを加えたトリオでプロとしての音楽活動を行った。

その活動のおかげで埋もれかかっていた「戦争は知らない」が、よみがえることになったのだ。

戦争は知らない

1968年の7月27日に渋谷公会堂で行われたコンサート『当世今様民謡大温習会(はれんち りさいたる)』のなかから、フォークルは「戦争は知らない」のライブ・テイクを、シングル「さすらいのヨッパライ」のB面に収録して68年11月10日に発売した。 

A面はまったくヒットせず終わったが、B面の「戦争は知らない」は新たな生命を吹き込まれたことで、若者たちに知られて歌い継がれていく。

加藤和彦は誰も気がついていない名曲を見つけ出す、特別の耳と感性を持っていたようだ。
彼は興味をもった作品に出会うと洋楽も邦楽も関係なく、ジャンルなどにまったく拘泥せず、楽曲の本質をつかんでカヴァーしてレパートリーに加えた。

2009年10月16日に自死するまで、加藤和彦は折にふれて「戦争は知らない」をうたい続けた。

そして「戦争は知らない」は寺山修司の愛弟子だったカルメン・マキを筆頭に、本田路津子、頭脳警察、加藤登紀子、元ちとせなどのアーティストにカバーされたことで、一度もヒットらしいヒットがなかったのに21世紀の今日にまで歌い継がれている。



加藤和彦・坂崎幸之助


ザ・フォーク・クルセダーズ

加藤登紀子










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