デビューから1年たらずのうちにイギリスで最も人気があるグループになったビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインはアメリカ進出にあたって、いくつかの作戦を考えていた。
そのひとつがニューヨークにおける音楽の殿堂、由緒あるカーネギーホールでコンサートを開くことだった。
鉄鋼王と呼ばれていたアンドリュー・カーネギーによって1891年に創設された伝統あるカーネギー・ホールは、マンハッタンの7番街57丁目の一角を占めるランドマークで、クラシックやポピュラー音楽などのコンサートが開催されてきた。
レナード・バーンスタインの指揮するニューヨーク・フィルの本拠地だった時期もあり、ベルリン・フィルとともにドイツからやって来たヘルベルト・フォン・カラヤンも、ここでアメリカ・デビューを飾っていた。
今から考えると意外に思えることなのだが、当時の常識としてイギリスのミュージシャンがアメリカで成功するのは、ほとんど不可能だと考えられていた。
1960年頃からイギリスで人気を誇ったクリフ・リチャードでさえ、キャピトル・レコードが鳴り物入りで売り出したのに、無残な失敗に終わっていた。
キャピトルはビートルズのアメリカ進出に、当初はまったく関心を示さなかった。
それどころかイギリスのEMI傘下にあるパーロフォン・レーベルと優先契約していたにもかかわらず、ビートルズのレコードを発売していなかったのである。
それは海外担当のA&Rチーフだったデイブ・デクスター・ジュニアが、デビュー曲「ラブ・ミー・ドゥ」と続く「プリーズ・プリーズ・ミ-」を聴いて、アメリカでは売れないと発売を拒んだからであった。
ビートルズのプロデューサーだったジョージ・マーティンは数年前に、自分がプロデュースしたインストゥルメンタルのアルバムの中に入っていた曲をデクスターに発見してもらっていた。
デクスターによって「スウィンギング・スウィートハーツ」と名付けられたそのシングル盤は、アメリカだけで思わぬヒットになったのだ。
マーティンはそのご褒美に訪米したことで、キャピトルが誇る最新のスタジオを見学させてもらった。
それが彼の仕事、特にビートルズには大いに役立っていく。
そんな関係にあったデクスターに「アメリカでは売れない」と言われたら、マーティンとしては従うしかなかった。
そこでパーロフォンはシカゴに本拠を持つインディーズのヴィー・ジェイと契約したのだが、「プリーズ・プリーズ・ミ-」も「フロム・ミー・トゥ・ユー」もいい結果を出せなかった。
さじを投げたヴィー・ジェイが手を引いてしまったために、3枚目の「シー・ラブズ・ユー」はさらにマイナーのスワンから発売された。
だがこれも惨敗に終わった。
それと同じ時期にキャピトルでは日本人の坂本九が歌った「SUKIYAKI」が、3週連続で全米1位の大ヒットを記録するという快挙を成し遂げていた。
ヒット曲を嗅ぎ当てる耳を持ったデクスターが、無名の日本人の歌を売り出して大成功を収めたのである。
ビートルズにはまったく関心を払わなかったデクスターが、新曲を聴いてその場でアメリカで発売したいと申し出たのは、1963年の秋にロンドンを訪れたときのことだった。
「抱きしめたい(アイ・ウォント・トウ・ホールド・ユア・ハンド)」に、なぜかデクスターは鋭く反応したのだ。
それを知ったマーティンは今度こそ、アメリカでもヒットするという自信を抱いたに違いない。
「抱きしめたい」を1964年1月にリリースするにあたって、ブライアンはプロモーションのためにテレビのバラエティ番組『エド・サリバン・ショー』に出演させる作戦を実行した。
そして訪米に合わせて本物のビートルズを観てもらうために、ワシントンDCとニューヨークではコンサートを行なうことも決めた。
クラシック音楽が好きだったブライアンだったから、格式のある音楽の殿堂に乗り込んでアメリカ人をあっと言わせたい、そんな気持ちがあったかもしれない。
12月に入って「抱きしめたい」がラジオから流れ始めると、リクエストが殺到し始めたことからキャピトルは発売予定日を2週間以上も前倒しにして、クリスマスには発売している。
それが1週目だけで80万枚、4週間で250万枚という驚異的なセールス記録したのである。
1月27日に販売されたカーネギー・ホール公演のチケットも、翌日には2回公演ともが完売となった。
その後でマスコミや音楽関係者から「ビートルズとは何者だ?」という問い合わせが入って、200席近い補助席が追加で設置されることになった。
『エド・サリバン・ショー』を利用したブライアンのプロモーション作戦は見事に成功を収め、2月8日はビートルズが動く姿を一目見ようと7500万人もの人たちが、チャンネルを合わせたことで視聴率は60%にまで達した。
そして2月12日、シャーリー・バッシーとトニー・ベネットをオープニング・アクトにして、歓声と熱狂に包まれたビートルズが35分間の2ステージを披露したのだった。
〈参照コラム〉*エド・サリヴァン・ショーに出演したビートルズが全米の若者にもたらした衝撃
(注)本コラムは2015年2月12日に公開された内容に加筆したものです。