数々の名演や伝説が生まれたライブハウス「フィルモア・イースト」が、ニューヨークで開店したのは1968年3月8日のことだった。
オーナーのビル・グレアムは、サンフランシスコのライブハウス「フィルモア・オーディトリウム」を成功させた人物だ。大陸を挟んだ東海岸で姉妹店を開店させるにあたり、ビル・グレアムは内装から音響、照明など細部までこだわった。
「最高のサウンド・システムを、あらかじめすえつけておくんだ。そうすれば、バンドがしょうもないサウンド・システムをステージわきに山積みし、せっかくの舞台がゴミ捨て場のようになる、なんて自体も避けられる」
ミュージシャンには最高の環境を用意し、観客には最高のショウを見せる、それがビルの考えるまっとうなショウ・ビジネスだった。
フィルモア・イーストのオープニング・アクトを飾ったのは、ジャニス・ジョプリン率いるビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニー、そしてティム・バックリィ、アルバート・キング。
夕方の17時頃、まだ開場前だというのに早くも100人ほどの人たちが並び始め、この新しいライブハウスへの関心の高さを物語っていた。
そんな様子を眺めながら、ビルは建物の周りを歩いていた。何かトラブルが起きていないか、見回るのがビルの習慣だったからだ。
すると、楽屋口で11~12歳くらいの子どもが3、4人で集まって、ドアをガンガンと蹴っていた。音に気づいて中から誰かが出てくるのを待っているようだった。あわよくば中に入ろうとしていたのかもしれない。
ビルはその横を通り過ぎながら立ち去るよう注意したが、彼らはドアを蹴るのをやめなかった。そこで再度彼らに話しかけると、交渉を持ちかけるのだった。
「新しいショウのたびに、わき道のところでトラックの積荷を降ろさなきゃならないんだが、どうだ、いっちょ手伝ってくれないか? むろんタダでとはいわない。ショウが見たいか? だったらオフィスから、堂々と入っていけばいい。それとあと、誰かがトラックや建物にいたずらをしないように、このブロックを見張っていてほしいんだ。できるか?」
それから3年間、この子たちは私たちのためにストリートを見張ってくれた。1時間4ドルでトラックの積荷のあげおろしを手伝い、ほとんど全部のショウを見にきた。
この出来事は、フィルモア・イーストが新天地で地元の人に受け入れられる、その第一歩となった。
初日はチケット完売の大盛況となり、エンタメ系の雑誌、ヴァラエティ紙では「フィルモア・イーストのオープンとともに、ニューヨークのロック・シーンは大きく前に踏み出した」と取り上げられた。
その後、フィルモア・イーストは、西海岸のロック・バンドを東海岸へと発信する場となっていく。
ところが1971年、突如としてフィルモア・イーストは閉鎖することになる。理由は看板アーティストがフィルモアを離れてさらに大きな会場でライブをするようになったこと、ビルが西と東を毎週のように往復する生活や業界やバンドとの交渉に嫌気がさしたことなど、いくつも挙げられている。
過酷な日々の中で追い詰められていたビルは、あっさりとフィルモア・イーストを閉鎖してしまうのだった。
そんなフィルモア・イーストだが、わずか3年間の間でCSN&Yの『4 ウェイ・ストリート』やオールマン・ブラザーズ・バンドの『フィルモア・イースト・ライヴ』など、数多くの歴史的なライヴ・アルバムが生まれた。
それは、フィルモア・イーストが最高のショウを見せることで観客を満足させたいという、ビル・グレアムの理念に基いてできた場所だったからに違いない。
参考文献:『ビル・グレアム ロックを創った男』ビル・グレアム、ロバート・グリーンフィールド著 奥田祐士訳(大栄出版)
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