4月30日は“カントリー界のアウトロー”として多くのミュージシャンたちからリスペクトされているウィリー・ネルソンの誕生日だ。プロフィール上では「1933年4月30日に米国テキサス州アボットで生まれた」とされているが、誕生日が4月29日と記されている資料もいくつか存在する。
60年以上に及ぶキャリアの中で、その名がクレジットされた音源作品は200枚を超えるという。ミュージシャンとして7度のグラミー受賞を始めとした数多くのアワード受賞歴を持ちながら、俳優としても映画やテレビドラマで多くの作品に出演してきた。
「彼は素晴らしいミュージシャンだ。生き方も、人柄も素晴らしい。彼は作った曲を、実に正しい形で世に残している」(トニー・ベネット)
「ウィリーが様々な音楽に広い理解を示してくれることに、大変感謝している」(イギー・ポップ)
「あなたの音楽は永久に生き続ける。この惑星で一番美しい男だからね」(スティーヴン・タイラー)
──ウィリーの両親はイングランド、アイルランド、チェロキーの血を引く混血者で、大恐慌時代のなか職を求めてアーカンソー州からテキサス州にやってきた。ところが、息子が生まれると母親は家を出て行ってしまう。
その後、父親が再婚したために、二つ年上の姉と一緒に鍛冶職人の祖父に育てられた。その祖父が幼い孫たちに音楽を教えたのだ。6歳のときに祖父からギターをプレゼントされ、コードを教わり、7歳ではじめて作曲して教会で歌った。9歳で地元のバンドに参加してギターを弾いていたが、夏場になると綿摘みに駆りだされた。綿畑での重労働を嫌うようになり、この時期から音楽で食べていくことを意識した。
高校時代はアルバイトをしながら街のバンドに加わるようになる。卒業は、空軍で9カ月間軍務に就いた後、21歳でベイラー大学に入学して農業を学んだが、2年ほどで中退して再び音楽にのめり込んでいく。
その後、クラブの用心棒や植木屋、油田作業員など職を転々としながら音楽活動を続ける中で、ラジオのディスクジョッキーの仕事に就く。カリフォルニア州、オレゴン州、ワシントン州、ミズーリ州などを渡り歩きながら、ラジオの仕事、聖書や掃除機の訪問販売、皿洗いなどをしながら曲を作り、レコード会社にデモテープを送りつづけたが、チャンスを掴むことはなかった。
そして27歳になってテネシー州ナッシュヴィルへ引っ越した頃から、運が向きはじめる。当時人気歌手として活躍していたロイ・オービソンやパッツィー・クラインが、ウィリーの作った曲を歌ってヒットさせ、ソングライターとして注目を集めるようになったのだ。
1961年、28歳のときにリバティ・レコードと契約を結び、翌年にリリースしたシングル「Willingly」や「Touch Me」がヒットし、音楽キャリアがようやく軌道に乗りはじめる。当初はカントリーミュージックをベースとした活動が主だったが、1960年代後半のヒッピームーブメントに強い影響を受け、様々な音楽性を吸収していく。
保守的なカントリー界にあって、ウィリーのヒッピー的なスタイルや雑多な音楽性は異彩を放ち、“カントリー界のアウトロー”と呼ばれるようになる。長い下積み時代を経てようやく陽の目を見るようになったウィリーは、レコード会社を移籍しながらも着実にキャリアを重ねた。
1975年、42歳のときに発表した「Blue Eyes Crying in the Rain」がカントリーチャートで1位となり、グラミー賞のベストカントリーヴォーカルの男性部門を受賞。
1985年にはマイケル・ジャクソンらが呼びかけたアフリカ難民飢餓救済のためのプロジェクト『USAフォー・アフリカ』に参加。
また、困窮するアメリカの農家を支援するためにニール・ヤングらと共に『ファーム・エイド』を同年に創設し、以降毎年チャリティコンサートを行うようになる。
さらに時を同じくしてウェイロン・ジェニング、ジョニー・キャッシュ、クリス・クリストファーソンと共にThe Highwaymenを結成し、好況に浮かれていたアメリカにアウトロー魂を蘇らせる。
その後もミュージシャンとしても俳優としてもアメリカにとって“なくてはならない存在”となった彼は、ポピュラー音楽によって世界の文化に多大な影響を与えたことが讃えられガーシュウィン賞(2015年)を受賞する。
そんな彼を称賛してローリング・ストーンズのキース・リチャーズはこんな言葉を贈っている。
「ウィリーは素晴らしい。美しきマリファナ常用者とは彼のことだよ。彼はベッドから起きだすとすぐに一服するんだ。俺でさえ朝起きて10分間は待つのに。なんて作曲家だ。彼は最高の一人だよ。」
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【ウィリー・ネルソンとウェイロン・ジェニングス〜カントリーのアウトローたち】
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