永六輔は常々、「人の死は一度だけではありません」と語っていた。
人は死者と共に生きている。死んだ人たちも、人の記憶の中では生きている。しかし、人は歳月とともに少しずつ、死者のことを忘れていく。だから時々は亡くなった人の思い出話をすることが必要で、それは供養のひとつだと言っていた。
歌も同じだろう。歌が死ぬのは、誰からも忘れられた時だ。いい歌は時代を越えて生きていく。聴く人も、歌い継ぐ人もいなくなったとき、歌は死ぬ。
2016年8月30日に行われた「六輔 永(なが)のお別れの会」には、遺族や生前に親交のあった友人、知人、関係者、そしてラジオのリスナーなどがたくさん参列した。
会場入り口には献花して下さった方たちの名前が展示されていた。そこに忌野清志郎の名があるのを見て、確かに「みんな生きている」という気持ちになった。
そう、「上を向いて歩こう」が歌い継がれていく限り、これを最初に歌った坂本九の歌声も、次世代に広めた忌野清志郎の歌声も、みんな今でも生きている。
『永六輔の「お話し供養」』(小学館)には、このように書いてある。
最初の死は、医学的に死亡診断書を書かれたとき。でも、死者を覚えている人がいる限り、その人の心の中で生き続けている。最後の死は、死者を覚えている人が誰もいなくなったとき。そう僕は思っています。
ほんとうの死が死者を覚えている人が誰もいなくなることだとするならば、ほんとうに生きているということはどういうことなのか。
1969年を最後に永六輔が作詞家という肩書を外したのは、自作自演の若い歌手が登場して来る時代を見越していたからだった。それから5年が経って、予想したとおりにシンガー・ソングライターの時代がやって来た。
永六輔は当時、作曲家の中村八大と二人でチャリティーのために「99円コンサート」を開いて、全国を行脚することにしていた。それを始めるに当たって中村八大から、これからの社会と時代に向けて、大人のメッセージ・ソングを作ることが提案された。
そこで永六輔はふたたび、「生きているということは」「生きるものの歌」などの作詞を手がけた。いつかは訪れる死を意識して生を語るという単刀直入な歌が、こうして生まれたのだった。
しかもライブでの評判が上々だったことから、1974年に40歳にして歌手デビューすることになった。
発売時に東芝EMIが打ち出した宣伝のキャッチコピーは、「五木寛之いわく“まさに説教節! 二十年の歳月をかけて、名人中村八大が育てあげた手づくりの歌手、永六輔の絶唱!」というものだ。
だが前評判や気迫が必ずしもヒットと結びつくものではない。6月5日に発売になった「生きているということは」は、プロモーション活動も熱心に行われたにもかかわらず、残念ながら目標とした数字には届かなかった。
この歌はそれから20数年間、ほとんど忘れられた状態にあったと言ってもいい。ところが、2013年の秋になってNHKの若いディレクターによって発見された。
そして歌にふさわしい声とキャリアを持ったベテラン・シンガーの上條恒彦が、テレビの番組のなかで歌ったところ、視聴者からの反響を受けてCD化されることになった。
永六輔と中村八大のコンビによって作られた数々の歌の中には「黄昏のビギン」(歌:水原弘)のように、1959年にレコードが発売されてから約30年間も埋もれていたにもかかわらず、ちあきなおみのカヴァーによってあざやかに蘇った名曲もある。
本当に死ぬまでは、どんな歌も生きている。歌を生かすのも殺すのも、聴き手にかかっている。
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