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スティング〜何かに突き動かされるように立ち上がったアマゾン熱帯雨林保護活動

2019.10.02

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1987年12月、スティングはリオでのコンサートを終えた後、プライベートでフランスを訪れカンヌ映画祭を楽しんでいた。
そこで彼はベルギー出身の写真家ジャン・ピエール・デュティルー(通称JP)からこんな話を持ちかけられる。

「私が作ったアマゾン熱帯雨林の窮状を収めたドキュメンタリー映画のスポークスマンになってもらえないだろうか?」


スティングは母と父を相次いで無くしていたこともあって、自分がジャングルに行くことで何か社会の役に立つ事ができるのではないかと思い、JPの言葉に耳を傾けた。
JPはスティングを熱心に説得し、ジャングルの先住民カポヤ族に会うことを勧めた。
何かに突き動かされるように、スティングは二つ返事ですべてを受け入れた。
数日後…彼は後の妻となる女優のトゥルー ディ・スタイラーを連れてブラジルに飛び、JPと共にカヤポ族の村へと向かった。
大きく膨らんだバッグには、カポヤ族へのお土産がどっさり詰め込まれていた。
JPはジャングルに住む部族と、どうやって心を通わせるか?知り尽くしていた。

「釣り針、ナイフ、釣り糸、懐中電灯、鍋…カポヤには金属がないからね。これを彼らが作ったものと交換するんだ。」


アマゾン川流域には様々な部族が住んでいる。
中には未だに他の人種と接触したことのない部族もいる。
1972年までは、カポヤ族も静かで平和な暮らしを送っていた…
しかし、欧米の企業がアマゾンの熱帯雨林に眠る豊富な資源(木材)に目をつけてからは、森林がいっきに荒らされ始めた。
欧米の人間たちは、もともとジャングルに住んでいたカポヤ族の生活や、彼らの権利などには見向きもしなかった。
森の破壊が進むにつれて、カポヤ族を含む多くの先住民たちは“安心して暮らせる場所”を失っていった。
1900年に200万人だった先住民の人口は、1987年の調べでは20万人にと…なんと1/10にまで大きく減少しているという。
スティングら一行は現地に辿り着くと、ラオニ酋長と握手を交わし、カヤポ族の悲痛な叫びに耳を傾けた。

「このまま好きなようにさせていたら、白人は森を破壊し尽くしてしまうだろう。そうなったらバクやオオアリクイやジャガーなど多くの動物がいなくなる。多くの木の実や果実が採れなくなる。わしらは何を食べて生きていけばいいのだ?」


数日間の滞在中、カヤポ族からの手厚いもてなしを受けたスティングは、この神秘に満ちた熱帯雨林を守るために何かしなくてはならないという衝動に駆られてジャングルを後にした。
ブラジルからロンドンに戻ったスティングは、周りの人間にことごとく熱帯雨林の話をし「どうにかしなければならない!」と強く訴えかけた。
スティングが熱帯雨林の保護に熱心になっているという報道はあっという間に広がっていったが…その裏では彼の行動を快く思っていない人たちも大勢いた。
地元の地主や企業などジャングルを開発しようと考えている輩である。
彼らがスティングを脅迫したり、抹殺まで企てているといった噂がまことしやかに流れた。
だがスティングの行動は多くの人に尊重され、彼は熱帯雨林保護に熱を入れていく…


1988年、スティングはコンサートツアーを再開させた。
キャスリーン・ターナーと共演した映画『ジュリア ジュリア』も公開され、俳優としてもさらに注目を集めるようになっていた。
映画一本のギャラは100万ドルを超え、名実ともにスターとなった彼だったが、私生活ではボディーガードや運転手を雇うこともなく、実にシンプルに暮らしていたという。
コンサートの現場でも、映画の仕事の途中でも、アマゾンのことが彼の頭から離れることはなかった。

「アマゾンに住む先住民たちが滅んだら、僕たちに順番がまわってくるのも時間の問題だ。熱帯雨林を焼きはらうことによって環境が受けている影響について、もっと多くの人が関心を持つべきなんだ。」


スティングは、熱帯雨林を守るための救済基金を創設する必要があると考え、まず手始めにカヤポ族のラオニ酋長を伴って世界中にこの窮状を訴えようとした。
そして、最終的には原住民の住む熱帯雨林地域を国立公園に指定することが出来ないかと考えていた。
1989年初頭から『SAVE THE RAINFOREST TOUR』と銘打って、スティングたちは世界各地を飛び回り、雑誌のインタヴューや大々的なキャンペーンを行い、半年間で100万ドル以上の寄付金を集めた。
彼らはフランスのミッテラン大統領や、ローマ法王とも会見し、アマゾン熱帯雨林の危機を訴えた。
その活動は決して順風満帆なものではなく、様々な批判を受け、乗り越えなければならない壁にもぶちあたった。
それでもスティングは辛抱強く行動し続け、約1年間で250万ドル以上の寄付金を集めたという。
そして1991年11月26日、ついにブラジル政府はカヤポ族居住区を含む18万平方km(日本の国土の約半分)の森林地域を保護区として承認した。
その場所には“シングーインディオ国立公園”という名前が付けられた。
マゾン川の主要な支流の一つ「シングー川」、そして先住民を意味する言葉「インディオ」。
それはスティングの思いが、一つの形として結実した出来事だった…


暴力は何の解決にもならず
怒れる星の下に生まれた者たちにはなす術がないという
どれほどぼくらが脆いのかを忘れないように…

いつまでもいつまでも雨は語るだろう
ぼくらがどれほど儚い存在なのかを…

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