70年代初頭からイギリスのパブロックシーンを牽引し、後のパンクロックムーブメントの火付け役となったドクター・フィールグッドから始まり、ソリッド・センダーズ、ザ・ブロックヘッズ、そしてソロ名義での活動と、長いキャリアを通してロックシーンの大きな足跡を残してきたウィルコ・ジョンソン。
“マシンガンギター”の異名を持つ彼のピックを使わない鋭いカッティングとリードを同時に弾く奏法は、世界中で数多くのフォロワーを生み、世代を超えてリスペクトされ続けている。
彼は青春時代にどんな日々を過ごしていたのだろう?
「お前は完全なる初心者だ!と自分に言い聞かせれば、不自由極まりない運指の練習もいくぶん気が楽になるものさ。それでも右利きの人と同じようにギターを構えてプレイするのは想像以上に難しいことだった。ことごとく直観に反した筋肉の動きを強いられるからだ。来る日も来る日も俺は自分自身が裏返しにされたような違和感を覚えながら練習を続けた。そしてついに右利きと同じようにギターを持つことが自然だと思える日を迎えたんだ。初志貫徹ってやつだ!」
利き手を無視したギターの練習を積むうちに、彼は音楽への理解も深めていった。
イギリスではローリング・ストーンズが世に出た時代だった。
ブライアン・ジョーンズが率いるそのバンドは、チャック・ベリーやボ・ディドリーといったアメリカのR&RやR&Bのアーティストに加え、マディ・ウォーターズやハウリン・ウルフを筆頭に、チェスレコーズに所属するブルースマンたちの音楽をルーツとする刺激的な演奏でファンを熱狂させていた。
「ストーンズのアプローチはまさに俺がやりたいことだった。ストーンズも良かったが、俺には偉大なギターヒーローがいたんだ。ジョニー・キッド&パイレーツでプレイしていたミック・グリーンだ。初めて彼のギターを聴いた日のことは今でも忘れられないよ。自宅のリビングでさり気なく耳を傾けていたラジオ番組で、DJが意気揚揚と彼らのシングル曲を紹介したんだ。次の瞬間“I’ll Never Get Over You”のイントロが流れて、俺は静止画像のように身体を一時停止させいたんだ。歯切れのいいコードプレイ、シンプルで力強いギターソロ、そしてリズムとリードのパートを一人二役でこなすテクニック。最高にイカしていたよ!俺は自分がやるべきことがはっきりわかったんだ!」
音楽にのめり込むようになって、彼は学校が嫌いになったという。
「ベルが鳴るのを待つ生活、尊敬もしていない人間に敬語をつかわなければならない毎日、教員たちから抑圧されてなければならない状況に身を置いていることが苦痛でたまらなくなったんだ。」
とはいえ、成績優秀だった彼は早い段階で8〜9種のGCE(一般教育復履修証明書)を取得してあっさりと卒業してしまう。
「苦行とも思えた学生生活の中で、俺にはひとつだけ気持ちを切り替える手段があった。昼休みになったら、階段を駆け下りて、デンマークストリートへ向かうんだ。そこは楽器屋が十数軒並ぶエリアだった。俺はショーウィンドウに飾ってあるフェンダーのギターを見つめながらランチタイムを費やしていたんだ。光沢のある美しいギターには到底手がつけられない値札がつけられていた。いつか意中のギターを手にすることを夢見るだけで気持ちが高揚したんだ。」
学生時代にバンドを結成して地元の労働者向けのパブなどで演奏していたが、成績優秀だった彼は、ニューカッスル大学で英文学を学ぶためにしばらくギターから遠ざかる。
教師になる夢を抱いていた彼は、在学中(1968年・当時21歳)にティーンエイジャー時代からのガールフレンド、アイリーン・ナイトと結婚し2人の息子をもうける。
妻アイリーンの理解と援助のおかげで、21歳になった彼はとうとう念願のフェンダー・テレキャスターを手に入れる。
大学卒業後、インドとネパールを放浪し…帰国後、地元の高校で母国語教師をしていたという。
1971年(当時24歳)、彼はリー・ブリローやジョン・B・スパークスに誘われドクター・フィールグッドを結成することとなる…
<参考文献『不滅療法〜ウィルコ・ジョンソン自伝〜』ウィルコ・ジョンソン(著))石川千晶(翻訳)/リットーミュージック>