「俺は3歳の頃からショービジネスにどっぷり浸かっていた。寝起きはホテル、下宿屋、移動の車に列車やバス、そして楽屋だった。」
1925年12月8日、彼はニューヨーク州のハーレム地区でアフリカ系アメリカ人の父とプエルトリコ系ユダヤ人の母の間に生まれた。
ユダヤ系の血も引く黒人だった彼は、小柄で痩せていて、特にスタイルが良いわけでもなく、けっして美男とは言いがたい容姿だった。
黒人やユダヤ人への人種差別が蔓延していた当時のアメリカの社会において、彼もまたその被害者の一人だった。
ボードビルショー巡業を生業とする一家のもとで育った彼は、幼少の頃から歌やダンスのレッスンを受け、3歳のときにはすでに舞台に立っていたという。
「俺にとっての家とは、照明があたり、芸人たちが演し物やり、笑いと拍手が鳴り響いているところだった。ほとんどの時間を父と(俺が“おじさん”と呼んでいた)ウィル・マスティンと一緒に過ごした。ステージに立たない時は、ハーレムにあった祖母の家に預けられていたよ。」
4歳になるまで彼はアメリカの10の州を旅し、50以上の都市でステージに立ったという。
彼と彼の父親、そしてウィル・マスティンのトリオは、どの街に行っても客ウケがよく、芸人仲間たちとの絆も深かった。
「6歳のとき、初めて客席から俺をめがけてお金が飛んできた。我々はいつもショーがどれくらいウケているか判断されていた。一番人気なら最良の楽屋が与えられ、看板の名前も最大に扱われる。自分たちよりもウケがいい者がいれば、楽屋も序列も二番目、三番目となるのだ。」
彼が7歳になった頃、トリオはニューヨークのブッキングオフィスに出入りするようになる。
一張羅を身につけた3人は、マンハッタンにそびえ立つビルを見上げながら“もう一つ上”の世界で活躍することを夢見ていた。
ある日、契約の場面で緊張していた彼に対して、ウィルがこんなアドバイスをしてくれたという。
「いいかサミー、注意して聞くんだぞ。芸能界(ショービジネス)は二つの言葉で出来ているんだ。“ショー”と“ビジネス”どっちが欠けていてもダメなんだ。歌や踊りなど観客を喜ばせるのが“ショー”。スケジュールやお金に関することが“ビジネス”。お前が人前で歌ったり踊ったりするのが好きなのはわかるが、そのことでちゃんとお金を手にすることができなければ、ただの自分の楽しみになっちまうんだ。そろそろお前も取り引きのやり方を覚えなくちゃならない。何を取り、何をあきらめるか。」
その頃の彼は、まだ読み書きが十分にできるわけではなかった。
トリオの名前は“ウィル・マスティンの一座(ギャング)フィーチャリング・リトル・サミー”と改められた。
サミーは訊ねた。
「フィーチャリングってなんなの?」
父親が答えた。
「つまりお前が“呼び物”ってことさ。まだ8歳でこんなふうに名前が出るやつなんてそうそういないぞ。」
続けてウィルがこう言った。
「さぁこれからはギャラも三等分だ!お前さんは一人前のパートナーなんだよ、サミー!まずは私とお父さんでショーをばっちり始める。そこにお前さんが出てきて、どんどん盛り上げるって寸法さ!期待してるぞ!」
旅回りが多く学校に通うこともできなかった彼は、通信教育で高校卒業資格を取得する。
19歳で徴兵されアメリカ陸軍に入隊した彼は、第二次世界大戦に一兵卒として参戦したものの、その経歴から最前線の兵士としてではなく、兵士向けのショーなどを行う慰問部隊に配属される。
除隊後すぐにショービジネス界に戻り人気を集めてゆく…
<引用元・参考文献『ミスター・ワンダフル サミー・デイヴィス・ジュニア自伝』サミー・デイヴィス・ジュニア(著)バート・ボイヤー(著)ジェーン・ボイヤー(著)柳生すみまろ(翻訳)/ 文藝春秋>