ロバート・プラントの父親が何故、ティーネイジャーになったばかりの息子をクラブに連れていったのかはわからない。
だがそれは1960年代初頭の話で、ロバートはそこで白人のブルースマンが歌う「何か」に触れたのだ。アメリカのフォーク・ミュージックに夢中だった少年が、ブルースと出会った瞬間だった。
イギリスに生のブルースが大挙してやってきたのは、1962年のことである。発端は、ひとりのドイツ人プロモーターのアイデアだった。アメリカのブルースをヨーロッパに紹介したい。そう思った彼は、ウィリー・ディクソンに相談を持ち掛けたのである。
1915年生まれのウィリー・ディクソンは、一風変わった経歴の持ち主だ。
ミシシッピ生まれの彼がイリノイ州に渡り、ボクシングのヘビー級チャンピオンになったのは22歳の時。ボクサー引退後、シカゴに渡ってから、ミュージシャンとしての活動をスタートさせている。
マディー・ウォーターズが、ウィリー・ディクソン作詞作曲の「フーチー・クーチー・マン」をヒットさせるのは、1954年のことである。シンガー、ソングライター、ベーシスト、プロデューサー。ウィリー・ディクソンは様々な顔をもっていた。そしてその顔は広かったのである。
ウィリー・ディクソンの尽力もあり、ヨーロッパにブルースを紹介するイベントは、毎年行われることになった。題して「アメリカン・フォーク・ブルース・フェスティヴァル」。その記念すべき1回目が1962年だった。
Tボーン・ウォーカー、メンフィス・スリム、ジョン・リー・フッカー、ウィリー・ディクソンなどのメンバーがヨーロッパをツアーしたのである。
ロバート・プラントが遭遇した白人のブルース・シンガーも、おそらくそのフェスティヴァルを見に行っていたのだろう。ロンドンの会場にはエリック・クラプトンやスティーヴ・ウィンウッドの姿があった。マンチェスターの会場にはミック・ジャガー、キース・リチャーズ、そしてジミー・ペイジがいた。ロバート・プラントより4歳年上のジミー・ペイジはその時、18歳だったことになる。
「髪も伸びないうちから、ハーモニカを吹いて、マディー・ウォーターズのブルースを歌ってた」
ロバート・プラントはそれからの日々を、そう振り返っている。ブルース・ボーイとなったロバート・プラントが家を出て、ミュージシャンとしての生活をスタートさせるのは、16歳になった時のことである。
マディー・ウォーターズが1963年に発表した「ユー・ニード・ラヴ」は、ロバート・プラントお気に入りの1曲だったのだろう。「胸いっぱいの愛を」で、彼はマディーの曲の本歌取りのような歌詞を並べている。
「胸いっぱいの愛を」はアメリカでシングルカットされ、チャートの4位まで上がるヒットとなり、ツェッペリンの初期の代表曲の一つになった。
Led Zeppelin Ⅱ
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