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「長崎は今日も雨だった」~エルヴィス・プレスリーとドゥーワップから生まれた新しい日本の歌だった

2024.02.21

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「長崎は今日も雨だった」は、RCAレーベルのディレクターになった山田競生が最初に手がけたアーティスト、内山田洋とクール・ ファイブの記念すべきデビュー曲である。

山田は明治大学に在学中からプロのハワイアンバンドでベースを弾いていたが、1958年からは10年間にわたって和田弘とマヒナスターズのベーシストとして活躍した。

日本の歌謡曲の歴史にその名を残したふたつのコーラス・グループの全盛時に、山田はかたやバンド・メンバーとして、かたや担当ディレクターとして関わっていたことになる。

しかし最初にクールファイブを担当する話がきた時、山田はまったく乗り気にはなれかったそうだ。

あー、嫌だなと思いました。私自身、コーラス・グループにいましたから、コーラス・グループだけは手がけたくないと思っていたんです。よりによってと思いました。そのとき、すでに「長崎は今日も雨だった」のテープは出来上がっていたんです。


しかし、テープの段階だったのに、早くも長崎の有線放送では1位になっていると知らされた山田は、その音源を聴いて大きく心を驚かされることになった。

それまで持っていた歌謡コーラスの固定観念みたいなものが、吹っ飛んでしまったんです。なんだ、こいつらはって興味がわいたのがきっかけなんです。


数多くのヒット曲を持つマヒナスターズがそうであったように、歌謡グループはハワイアン出身が大半を占めていた。
残りがロス・プリモスやロス・インディオスなど、ラテン系といわれるグループだった。
ところがクールファイブの音楽からは、ロックンロールやオールディーズのエッセンスが伝わってきたのだ。

「なんだ、こいつらは」と山田に思わせたのは、演奏にロックンロールのビート感があり、エルヴィス・プレスリーにも通じるパワフルなヴォーカルが乗っていたことだろう。

内山田くんたちはロックンロールをやっていたりした連中の集まりなんです。彼らは、私もそうであったように、クラブで歌っていたんです。つまりは、お客を喜ばすために歌謡曲を歌わなければならなかったんです。そうした過程で、歌謡曲そのものに興味を覚えてきたわけです。


メイン・ヴォーカルで前川清にとって音楽の原点となったのは、中学までを過ごした長崎県佐世保市でアメリカ兵が出入りする店のジュークボックスから流れてきたジャズ、ロックンロール、オールディーズだった。
なかでも夢中になって聴いたのが、エルヴィス・プレスリーの「冷たくしないで」だったという。

前川は1965年から66年にかけて大流行したエレキブームのなかで、アマチュアのバンドでヴォーカルを担当したこともあった。
だが勉強が嫌いだったので親に内緒で高校を2年で中退し、サラリーマンや溶接工を経た後に長崎市にある小さなクラブで歌い出した。

いいヴォーカリストを探していたベースの小林正樹が聴きに来て、クールファイブで歌うようになったのは1968年のことだ。

クールファイブは長崎市の繁華街にあるグランド・キャバレー「銀馬車」の専属バンドで、全員が楽器を演奏しながらコーラスを歌っていた。
そして自主制作した「涙こがした恋」と「西海ブルース」が長崎の有線放送で人気を得て、プロとして地元での地歩を固めつつあるところだった。

同じ頃に長崎で「銀馬車」と人気を二分する「十二番館」の専属バンド、コロラティーノが自分たちのオリジナル曲「思案橋ブルース」をレコード化したところ、1968年の夏から秋にかけて全国的なヒット曲になった。


ラテンバンドの東京パンチョスでリーダーだったチャーリー石黒がクールファイブを発見したのは、テレビの歌番組『ロッテ歌のアルバム』の公開収録で長崎を訪れ際のことだ。
森進一を見出して育てて世に出したプロデューサーでもあった石黒は、「銀馬車」に立ち寄って偶然に前川清の歌を聴いてその声に惚れ込んだのだ。

そして彼らが自主制作するレコードに「涙こがした恋」を城美好のペンネームで作曲し、そうした縁が出来たので上京してプロになるようにと日本ビクターを紹介してくれた。
ところがデビュー曲の候補だったする「西海ブルース」が直前になって、レコーディングには使えないことが判明する。

佐世保市を拠点に活動していた尾形義康の書いた楽曲の「西海ブルース」は、「銀馬車」で芸能企画を担当していた吉田孝穂が永田貴子(たかし)の名義で歌詞を書いて、それをクールファイブに歌わせていた。
だがオリジナルを作詞・作曲した尾形から、別の歌詞によるレコード化の同意が得られなかったのだ。

吉田は「十二番館」のコロラティーノに対抗するために、なんとしても長崎のご当地ソングで「銀馬車」からヒット曲を出したかった。
そのために吉田は急いで「長崎の夜」という歌詞を書くと、北海道放送のディレクターだった新居一芳(筆名:彩木雅夫)を訪ねて作曲を依頼した。
森進一の「命かれても」「花と蝶」「年上の女」を作曲した彩木ならば、ヒット曲が生まれる可能性が高いと信じていたのだ。

北海道の放送局HBCのディレクターが本業だった彩木はそもそも、ご当地ソングというものが好きではなかったので気乗りしなかったという。
だが森進一の育ての親であるチャーリー石黒の紹介だったことや、切羽詰まっていた吉田が遠路はるばる長崎から札幌まで駆けつけたので、作曲を引き受けることにして歌詞を預かった。

ただしメロディーをつけ終わった段階で、彩木は八割りがたの歌詞を書き換えてしまったという。
「長崎の夜」ではありきたりのご当地ソングになってしまうので、タイトルも「長崎は今日も雨だった」と変えた。
そもそもキーワードになった雨という文字が、元の歌詞にはどこにも入っていないものだった。

1966年から68年にかけて大ヒットした加山雄三の「君といつまでも」や、森進一の「女のためいき」に続く一連のヒット曲たち、水原弘の「君こそわが命」とか石原裕次郎の「夜霧よ今夜も有難う」は、いずれも三連符を使ったロッカ・バラードによる楽曲であった。

出来上がってきた「長崎は今日も雨だった」も三連符によるロッカ・バラードで、アレンジした森岡賢一郎は加山雄三の「君といつまでも」を筆頭に、彩木の書いた「花と蝶」や「年上の女」などを手がけていて、ロッカ・バラードはお手のものだった。

1960年代後半に登場した3連符による新しい和魂洋才の歌は洋楽をバックボーンにしつつ、日本語の母音を強調する歌い方でダイナミズムを感じさせることに成功して定着していった。

「さがし さがし求めてエエエ~」というように語尾の母音を強調する前川のヴォーカルを、さらにドゥワップのコーラスで強調するというクールファイブの歌唱法は、それまでにない新しい日本の歌を生み出したのである。


卓越した能力を持つヴォーカリストの前川清は、先行していた森進一や半年遅れでデビューする藤圭子とともに、そうした新しい日本の歌のパイオニアとなっていく。

レコード・デビューが決まったクールファイブのメンバーたちは寝台特急「さくら」に乗って上京し、築地のビクタースタジオでレコーディングを行うことになった。

だが最年少だった前川は3段ベッドの一番上をあてがわれたために、天井ギリギリで狭くて一睡もできないまま、12時間以上かけて到着した東京駅からそのままスタジオへ入った。
前川が当時のことを、このように回想している。

「ヘッドホンがなくて、スピーカーから小さいカラオケの音が流れる中で歌って、自分の声はモニターできない。戸惑いながら4~5時間歌いました。徹夜で調子が悪くて、声の伸びも最悪。翌日もう一回歌わせてもらったけど、不思議なことに初日の方が声の仕上がりが良くて採用された。上京した直後で必死に一生懸命、何も考えずに歌ったのが良かったのかな。あの歌い方はもうできない」


ちなみに「長崎は今日も雨だった」の下敷きになっていたのは、オールディーズの「ロンリー・ナイツ」(ザ・ハーツ)と、「イン・ザ・スティル・オブ・ザナイト」(ザ・ファイヴ・サテンズ)だろう。



<参考文献>中山久民編・著「日本歌謡ポップス史 最後の証言」白夜書房、読売新聞社文化部「この歌この歌手(上)運命のドラマ120」教養文庫

(注)前川清の言葉は2017年5月22日10時0分配信 スポーツ報知〈前川清、「長崎は今日も雨だった」は思い入れゼロだった〉からの引用です。


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