BEGINは沖縄県石垣島出身の幼ななじみの同級生が組んだバンドで、東京で結成された当初はロックを演奏していた。1989年にTBS系のオーディション番組「イカすバンド天国」を経て、オリジナル曲「恋しくて」でデビューしたのは1990年だ。
やがて活動を続けるにしたがってブルースやカントリーに傾倒し、独特の味わいを感じさせる存在となっていった。そうした過程で自然に沖縄の島唄へと、表現の領域を広げていくことにもなる。
彼らの代表曲となる「涙そうそう」が誕生したのは、ライブ活動を通じて意気投合したベテラン・シンガー、森山良子との出会いが発端だったという。
森山にとって沖縄との縁もまた、歌との出会いを通じて始まったものである。それは1969年にレコーディングされた反戦の歌、寺島尚彦が作詞作曲した「さとうきび畑」にまでさかのぼる。
「この曲は、私がデビューをして1年ほどが経った頃に、何度かステージをご一緒させていただいた寺島尚彦先生から『是非歌ってほしい』ということで、頂いた曲です。この歌では太平洋戦争の沖縄戦で父親を亡くした子供の悲しみがつづられています」
その当時の森山は戦争というものを深く考える必要のない環境で育ったこともあって、この歌に込められた作者の切実な思いと、それを歌うことになった自分の意識との隔たりに、どうしても戸惑いを感じずにはいられなかったという。
「自分には歌えない」と思っていたにもかかわらず、1969年に発表したアルバム『カレッジ・フォーク・アルバムNo.2』に収録したのは、信頼していたレコード会社のディレクターに強く促されてのことだ。
その結果、「さとうきび畑」は作品の評価も高く、リスナーからの反応もよかったので、本人の思いに反してコンサートで歌ってほしいというリクエストが増えていく。だが、森山は自分に歌う資格があるのかと自問自答し、しっかりと歌える力はまだないとの判断から、ついに歌うことをやめてしまう。
そんな森山に転機が訪れたのは1991年で、中東で発生した湾岸戦争のニュースを目にして、再び「さとうきび畑」を歌おうと心に決めたという。
そのようにして沖縄とあらためてしっかり向き合うようになった森山は、BEGINに沖縄テイストの曲づくりを依頼した。
まもなくして作詞をしてほしいと届けられた1本のデモテープには、「涙(なだ)そうそう」というタイトルだけが書いてあった。
そのタイトルが意味しているのは、涙がポロポロこぼれ落ちることだと知って、森山はなぜか23歳の若さで急死した兄を思い出したという。幼い頃から仲がよくて頼りにしていた兄が、何の前触れもなく急性心不全で亡くなったのは1970年のことだった。
そのときに兄を思って一気に歌詞を書き上げることが出来たのは、長期に渡って封印されていた自分の気持ちが、「涙そうそう」という聞き慣れない沖縄の言葉と、BEGINのゆったりしたメロディーによって触発されたからであろう。
「それまで言葉にできなかった感情を、メロディーの力を借りて歌詞に書き上げることができました。とりとめのない思いを言葉にできたため、心の中が整理されたんです。そして、もしこの曲に出会わなかったら、いつまでも誰にも言えない兄への思いを抱えていたかもしれません。出会いとは偶然ではなく、運命が時を選んで、会うべき人に会わせてくれているんだと思えました」
こうして森山良子のアルバム『TIME IS LONELY』(1998年)に収録された「涙そうそう」が、広く一般にまで知られるきっかけは、2000年に開催された沖縄サミットのテレビ中継だった。
その番組を偶然に見ていたのが、BEGINと同じ石垣島出身で、彼らよりも一足先に演歌歌手としてデビューしていた星美里。ただし、星美里はヒットに恵まれなかったために、いったっん引退して沖縄に戻って、1999年に夏川りみと名前を変えて再デビューしたばかりだった。
(注)文中に引用した森山良子の発言は2017年3月9日に公開された「インタビュー 情熱と挑戦の先に 69歳で年100本のステージ 歌手・森山良子の覚悟とは」(カンパネラ)からの引用です。
●この商品の購入はこちらから
●この商品の購入はこちらから
●この商品の購入はこちらから
●Amazon Music Unlimitedへの登録はこちらから
●AmazonPrimeVideoチャンネルへの登録はこちらから
TAP the POPメンバーも協力する最強の昭和歌謡コラム『オトナの歌謡曲』はこちらから。