松本隆は1985年の11月から12月にかけて、朝日新聞の夕刊で週1回『新友旧交』というコラムを8週にわたって書いていた。
そのときに「待ってくれた大滝」と題して、アルバム『A LONG VACATION(ア・ロング・バケイション)』が誕生した時の経緯を明かしている。
大滝詠一について語ろうとすると、もう十数年のつきあいになるのに、彼のことを何も知らないような気がしてくる。そういえば彼から家族のこととか、身の回りの雑事について聞いたことが無い。仕事以外のプライベートなことに関して口が重いのかもしれない。
一度だけ彼がぼくの家を訪ねてくれたことがある。
「今度作るアルバムは売れるものにしたいんだ。だから詩は松本に頼もうと思ってね」
「よろこんで協力させてもらうよ」
後にミリオン・セラーになった『ア・ロング・バケイション』は、こんな会話から生まれた。
(「待ってくれた大滝」朝日新聞1985年12月18日夕刊(「新友・旧交」欄)
『ア・ロング・バケイション』は当初、6枚のシングル盤をセットにした企画として、大瀧詠一の誕生日である1980年7月28日と発売日が決まっていた。
ところが制作が順調に進んで、歌入れが始まろうとしていた時期になって、病弱だった松本の妹が心臓発作で倒れるという出来事が起こった。それは当時の大平首相が倒れた翌日のことだったが、松本の妹は偶然にも同じ病院の隣りの部屋に入院した。
大瀧から作詞の依頼を受けていた松本は、急な事情を説明して他の作詞家を探すようにと、電話で連絡を入れた。しかし、大瀧はこう応えたという。
「いいよ、俺のアルバムなんていつでも出せるんだから。発売は半年延ばすから、ゆっくり看病してあげなよ。今度のは松本の詩じゃなきゃ意味が無いんだ。書けるようになるまで気長に待つさ」
それから数日後、松本の妹は息をひきとった。松本には妹の最期を病院で看取った後に歩いた渋谷の街が、色を失ってモノクロームのように見えたという。
精神的なショックから立ち直るまでには、それから3か月ほどの時間が必要だった。
その間、彼は何も言わずに待ってくれた。あのアルバムの中の詩に人の心を打つ何かがあったとしたら、明るくポップなプールのジャケットの裏に、透明な哀しみと、それを支えてくれた友情が流れていたからだと思う。
『ア・ロング・バケイション』は予定より8か月も遅れて、1981年3月21日にCBSソニー移籍第1弾として発売された。アルバムの1曲目を飾ったのはゴージャスで華やいだサウンド、明るいポップスそのものという印象の「君は天然色」である。
大瀧詠一は「君は天然色」について、後にこう回顧している
この「天然色」の成功がなかったら、『ア・ロング・バケイション』 も、このCBSソニー時代も、輝かしいものにはならなかったであろうことを考えると、この曲には特別な感慨があります。
目の前が色を失って灰のように見えた世界から、松本が立ち直るきっかけとなったのが「君は天然色」だった。そしてモノクロームの世界から輝かしい天然色の世界に戻してくれたのは、“うるわしの Color Girl”だったのである。
その歌詞には妹への祈りが込められているかのようだ。
かつての盟友だった松本隆と組んだという話題もあって、レコード店では永井博によるジャケットのイラストレーションを使ったポスターやPOPが、華々しくディスプレイ展開された。
夏までベストセラーを記録した『ア・ロング・バケイション』 は、発売から5ヶ月後にアルバム・チャートで最高2位まで上昇した。
またアルバムと同日にシングル・カットされたリード・シングルの「君は天然色」は、後にロート製薬「新・Vロート」(1982年)に使用されて広まり、さらに21世紀になってもキリンビバレッジ「生茶」(2004年)、アサヒビール「すらっと」(2010年)のCMソングとなったことで、すっかりお馴染みのスタンダード・ソングへと成長していった。
そしてアルバムとシングルのレコード発売日となった3月21日は、ナイアガラ・レーベルにとって大切な大瀧詠一記念日になっている。
(注)本コラムは2016年3月25日に初公開されました。アイキャッチ画像のイラストは永井博氏の作品です。
<参照コラム・3月21日は春分の日だが、いつの頃からか音楽ファンには「大滝詠一の日」になった>
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