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フジ子・ヘミング27歳〜国籍を失った青春時代、そして難民としてドイツ留学の夢を叶える

2018.06.16

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フジ子・ヘミング。
「聴いた人が涙を流すピアニスト」
「聴力の80パーセントを失った音楽家」
「60歳を過ぎるまで全く無名だった天才アーティスト」

彼女がメディアで紹介される時に使われてきたフレーズだ。

「憧れのドイツ。母が学んだベルリンの街。きっと私のピアノを評価してくる人がいるに違いない。目をつむれば…大勢の聴衆が私のピアノに、私の奏でる音に、歓声と拍手で応えてくれる。その様がありありと浮かんでくるんです。」


彼女はロシア系スウェーデン人だった父親の都合で、18歳の時に日本にいながらも国籍を失う。
その後、ドイツへの音楽留学を試みるが…無国籍の彼女はパスポートが取れずに一般での留学を断念。
国籍を持っていなかったがためになかなか海外留学できずに鬱々と過ごした若き日々…彼女は何を思い、何を夢見ていたのだろう?

「母は子供だった私に、いつもドイツの話、ベルリンの話を得意気にしてくれました。だから私にとってベルリンは“未知の場所”というよりは、心の中で確かに息づいている“私の街”でもあったのです。」


──1932年12月5日、彼女は東京音楽学校(現・東京芸術大学)出身のピアニスト大月投網子(おおつきとあこ)とロシア系スウェーデン人画家/建築家ジョスタ・ゲオルギー・ヘミングとの間にベルリンで生まれる。
一家は彼女が5歳の時に日本に帰国。
父は開戦の気配が濃い日本に馴染めずスウェーデンに戻ってしまい…以来、彼女は母の手ひとつで東京で育てられ、5歳から母の手ほどきでピアノを始める。
10歳からは、父の友人だったロシア生まれドイツ人ピアニスト、レオニード・クロイツアーに師事し、17歳でデビューコンサートを経験する。
クロイツアーはフジコのピアノの才能を絶賛していたという。

「彼女はいまに世界中の人々を感激させるピアニストになるだろう!」


父親が日本を去ったあともスウェーデン国籍のままだったが、彼女自身は一度もスウェーデンに住んだことがなかったため…18歳の時に国籍を失ってしまう。

「母が日本人なのだから“だったら日本国籍を!”と思って役所へ行くと、意地の悪い役人たちは、私たち親子に日本国籍を与えようとはしなかった。何度も何度も足を運んだのにダメでした。どこの国も役人は同じ。偉い人には優しく面倒見がいいのに、貧乏人とか弱い立場の人間には威張るだけなのだ。」


青山学院高等部を卒業した彼女は、」東京音楽学校(現・東京芸術大学)在学中に、NHK毎日コンクール入賞、文化放送音楽賞など多数の賞を受賞する。
大学卒業後、本格的な演奏活動に入り、渡辺暁雄指揮による日本フィルなど、数多くの国内オーケストラと共演する。
ある日、来日中だったサンソン・フランソワ(第二次世界大戦後のフランスにおける代表的なピアニスト)は、フジ子のショパン及びリストの演奏を聴き絶賛したという。
その後、ドイツへの留学を試みるが…無国籍の彼女はパスポートが取れずに一般での留学を断念。

「日本は私のピアノを評価してくれる人が少ない…。私の演奏に対して、微笑みながら褒めてくれることはあっても、その笑いながらの表情には、純粋な評価は感じられなかった。私の目には、それが馬鹿にされてからかわれているように映っていました。それよりも外国人のほうが、私のピアノを受け入れてくれる人が多かったんです。」


留学を切望しても…国籍の問題で叶えることができない。
辛い気持ちのまま、音楽を続けるしかなかった彼女は27歳の時に、大きな転機を迎える。
1960年、彼女は東京で小さな音楽会を開く。
その日、客席の中にドイツ大使の姿があった。
その紳士は彼女のピアニストとしての才能を認め、こう話しかけてきたという。

「君のピアノはきっとドイツ人の心の奥に入るだろう。なぜなら、君のピアノには東洋的な哲学性があるから。もしも国籍の問題があるのならば、赤十字の難民としてドイツへ渡ればいい。」


彼女は、その時のことを鮮明に憶えていた。

「難民?私は帰宅してすぐに辞書を引きました。するとそこには“人災、天災に遭い、生活に困っている人”と書かれてある。戦争中ならまだしも…今頃、この日本で難民だなんて…」


翌1961年、駐日ドイツ大使の助力により、赤十字難民として彼女はドイツ留学を果たす。
難民としてドイツに渡った彼女は、貧しい生活を強いられ、食べ物はジャガイモばかり、時には一週間砂糖水だけで過ごすこともあったという。
彼女は著書に当時の不安をこんな風に綴っている。

「1961年、わたしはベルリン国立音楽学校の留学生としてドイツにやってきた。何とかなると思っても、誰も知っている人のいない国で生活していくのに大きな不安があったことも確かだった。いつもうつむいてばかりで、元気がなくて…明るい曲を弾く時でさえ、悲しくうつろに響いて聴こえてました。」



<参考文献『フジ子・ヘミング 耳の中の記憶』フジ子・ヘミング(著)小学館>
<参考文献『フジ子・ヘミング 魂のピアニスト』フジ子・ヘミング(著)求龍堂>



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