TAP the DAY

アート・ブレイキーを偲んで〜ピアニストからドラマーへの突然の転身、親日家、後進たちに刻み続けるハートビート(鼓動)〜

2017.10.16

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アート・ブレイキー。
脈々と続くジャズ史において、輝かしくその名前を刻んだ名ドラマーである。
1919年10月11日 、アメリカ合衆国のペンシルベニア州ピッツバーグで産まれ、71歳を迎えた5日後の1990年10月16日に肺炎のためこの世を去る。
親日家として知られてた彼は、生前、こんな言葉を残している。

「私は今まで世界中を旅してきたが、日本ほど私の心に強い印象を残してくれた国はない。それは演奏を聴く態度は勿論、何よりも嬉しいのは、アフリカを除いて、世界中で日本だけが我々を人間として歓迎してくれたことだ。人間として!」


当時、ジャズ界で大活躍していた彼ですら、本国アメリカでは差別されていたのだ。
そんな中、来日した際に熱心なファンに出迎えられ、彼は心から感激したという。
1961年の初来日以降、何度も日本で演奏を行った。
かつての妻の1人が日本人だったという彼。
演奏したレパートリーの中には「雨月」「京都」「銀座」など、日本をテーマにしたものも存在するほどだ。


1970年代以降、彼が率いたバンド、ジャズ・メッセンジャーズに鈴木良雄、鈴木勲などの日本人がレギュラーまたは客演で加わっている。
また、来日時には日本人ドラマーのジョージ川口、白木秀雄らともドラム合戦を繰り広げることもあったという。
亡くなる間際まで来日を繰り返し、特に夏のフェスティバルでは顔的存在となって多くの日本人に愛され続けた。
彼は一体どんなドラマーだったのだろう?
「ブレーキの壊れたダンプカー」「ナイアガラロール」と異名を取るドラムの連打を武器にジャズシーンを席巻した彼の演奏スタイルは、まさに唯一無二だったという。
そんな彼がドラムを叩き始めたきっかけとして、ある面白い逸話が残っている。
幼い頃からピアノを学んでいた彼は、ある日突然ドラマーに転身したというのだ。
彼は10代後半からジャズピアニストを志してニューヨークへ進出。
ある夜、彼が演奏していたクラブに、ギャングとも交流のあった店のボスが別のピアニストを連れて来て弾かせたところ、彼よりも優れた演奏をしたため、ボスは彼に「お前はタイコでも叩いてな!」と拳銃をちらつかせながら脅したというのだ。
当然ながらドラムの腕は大したことはなく…バンド仲間からは馬鹿にされる日々が続く中、盟友のトランペッター、ディジー・ガレスピーが熱心にアドバイスをし、彼はみるみるその腕を上げたという。
1944年、25歳を迎えた彼はビリー・エクスタインの楽団へ入り、マイルス・デイヴィス、セロニアス・モンク、チャーリー・パーカーらとの共演を経て、35歳(1954年)にして、から1955年にかけて“ファンキー・ジャズ”の第一人者としても知られるピアニスト、ホレス・シルヴァーと共に初代のジャズ・メッセンジャーズを結成する。
“ハード・バップ”を牽引したトランペット奏者クリフォード・ブラウンや、アルトサックス奏者ルー・ドナルドソンらを擁してジャズクラブの名門バードランドに出演して人気を博すようになる。
以降、当時多くのジャズメン達が辿った“浮き沈みの激しい音楽人生”を生き抜きながらも、彼はジャズ界に大きな功績を残す存在となってゆく。
ジャズ・メッセンジャーズを率いながら、彼は多くの新人ジャズメンを発掘し、育み、超一流に育て上げたのだ。
「彼がいなかったら、多くの才能に満ち溢れたジャズメンがその才能に自ら気づくことなく世に出なかった」とも言われているほどだ。
自らのバンドを“メッセンジャーズ(伝道師たち)”とも語っていた彼は、今もなお現役のジャズメンたちの心に大切なハートビート(鼓動)を伝え続けているのだ。


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