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ちあきなおみ「喝采」

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喝采〜ちあきなおみが歌った“悲しみの名曲”の誕生秘話

2016.06.05

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いつものように 幕があき
恋の歌うたう私に 届いた報(しら)せは
黒いふちどりが ありました


「喝采」は、歌手・ちあきなおみの13枚目のシングル曲として1972年9月10日に発売された楽曲である。
当時25歳だった彼女は、この曲で『第14回日本レコード大賞』の大賞をはじめ、その年の賞という賞を総なめにした。
リリースから3ヶ月でのレコード大賞受賞は史上最短記録だったという。
歌詞の内容は、主人公の女性歌手のもとに大切な人の訃報が届き、心に傷を負った彼女はそれでも恋の歌を舞台で唄いつづける…というストーリーである。
当時、ちあき自身の“私小説歌謡”として売り出されたこの歌は、一体どんな経緯で作られたのだろう?

東京都板橋区で生まれた彼女は、芸事が好きだった母親の影響で、4歳の頃からタップダンスを習い、5歳で日劇の初舞台を踏んだという。
その後、米軍キャンプやジャズ喫茶、キャバレーなどで歌うようになる。
この下積み時代に彼女は、この曲の歌詞の内容と重なるような経験をしたというのだ。
当時、まだ十代だった彼女には兄のように慕っていた若手舞台俳優がいた。
彼は岡山県の鴨方町(現在の浅口市)に住んでおり、ある日病に倒れ…突然この世を去ってしまう。
その別れは彼女にとって忘れられないくらいの辛い思い出となり、胸の奥にそっとしまって鍵をかけたままとなった。
21歳の時につかんだレコードデビュー以来、彼女のシングル曲の作詞を3作立て続けに担当した吉田旺(よしだおう)は、ある日彼女から新曲の依頼を受ける。
3年程離れていて、彼女のレコードの売り上げ枚数がやや下降線を辿ろうとしていたことを知った吉田は、その依頼に特別な意味を感じ、燃えたという。
「その時すぐに作った12枚目のシングル“禁じられた恋の島”が売れなくてね…彼女の気持ちに応えられなくて悔しい思いをしました。」
その後、吉田は他の仕事はそっちのけで、彼女のためにアルバム一枚分くらいの量の歌詞を書きまくった。
アイドルという世界から脱却させ、誰もが認める彼女の歌唱力を生かしたい。
作詞家の吉田と、作曲家の中村泰士(なかむらたいじ)、それは演出する担当ディレクター(コロムビア)だった東元晃の間で“妥協のないものづくり”が始まった。
吉田は「歌い手をテーマにした詞を書いてみよう」と思い立ち、一篇の歌詞を完成させた。
吉田がつけたタイトルは“幕が開く”だったが、プロデューサーの東元がそのタイトルに難色を示した。
“黒いふちどり”という部分が「縁起が悪い」「死を歌詞に持ち込むことはない」「いくら別れの歌でも殺す必要はない」と、コロムビアをはじめ作曲者の中村は歌詞を変えるよう提案したという。
しかし、吉田は「いや、ここが核だから!」と頑なに変えず、この部分の歌詞を死守した。
レコーディングの際には、ボーカルブースが黒いカーテンで囲まれ、彼女は誰にも姿を見せることなく声を出すために裸足で臨んだという。
そして、歌入れが終了した段階で、プロデューサーの東元によって“喝采”というタイトルに変更されリリースが決定した。
実は、作詞をした吉田は彼女の過去の実体験を知らずにこの歌詞を書いたという。
吉田の故郷は北九州の若松市。
小倉駅を舞台に東京へ行く思い出を重ねてストーリーを構成した。
結果、出来上がった歌詞が、ちあきが過去に経験した“悲しい別れ”の状況と偶然似ていたため、歌詞の内容を“実体験”としてプロモーションに活かすという戦略がとられたのだ。
彼女は、この歌詞が自身の辛い経験とあまりにも重なっていたため「私、この歌は唄いたくない…」とマネージャーに言ったというエピソードが残っている。
「彼女は並の歌手ではありませんでした。歌をよく知っている人で、自分に厳しい人だった。」とプロデューサーの東元は語る。


華やかな舞台でスポットライトを浴びた昭和の歌姫は、1992年に俳優だった最愛の夫・郷鍈治(ごうえいじ)と死別した。
彼女はそれ以来、引退宣言もなく表舞台から姿を消した…


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