1974(昭和49)年10月22日と23日の2日間、「ちあきなおみリサイタル」が東京・中野サンプラザホールで開催された。
演出はTBSの音楽番組のプロデューサーだった砂田実、構成作家は松原史朗、アレンジャーには宮川泰、伴奏がビッグバンドの高橋達也と東京ユニオン、それに60人ものストリングスが加わった大編成だった。
当代一流のスタッフが揃って、十分な時間と手間とお金をかけた渾身のリサイタルは、ちあきなおみの自伝とも思わせる書き下ろし曲(作詞:松原史朗 作曲:森田公一)、「私はこうして生きてきました」から始まった。
ちあきなおみは1969年に「雨に濡れた慕情」で、長かった下積みを経てレコード・デビューした。
アメリカ軍のキャンプをまわる、ちびっ子タップダンサーの仕事についたのはわずか5歳の時で、「白鳩みえ」の芸名だったという。
それから紆余曲折があり、マネージャーとなる吉田尚人と出会って、彼が興した「三芳プロ」に所属して本格的な歌手活動に入ったのが13歳の時で、「五城ミエ」の芸名になっていた。
主にジャズ喫茶でロカビリーやポップスを歌っていたが、その後は地方を廻って前座歌手を務めるなどして、10代半ばには2年ほど演歌のレッスンにも通った。盛り場の流しまで経験したのは、「南条美恵子」という芸名の時期だった。
老舗のレコード会社だったコロムビアのポップス部門から、レコード・デビューが内定したときには20歳になっていた。そのときに師事することになった作曲家の鈴木淳は、彼女に演歌を歌うことを固く禁じた。
最初の課題は、演歌風のコブシを一切出さずにストレート・ボイスで歌うこと。そのために「これから1年間、絶対に演歌を歌わない!」という約束をさせました。ストレート・ボイスの練習曲は西田佐知子の「東京ブルース」や「アカシヤの雨がやむとき」など。さらにジャズシンガーのヘレン・メリルやジュリー・ロンドンの歌が「なぜ、聴く人の心にしみるのか?」など、1年半にわたって明けても暮れても同じレッスンを繰り返したのです。(注1)
鈴木淳が書いたデビュー曲「雨に濡れた慕情」はジャジーな都会調のポップスで、まずまずのヒットになって順調な滑り出しとなった。
だが、その後の曲が期待したほど売れなかったことで、若い女性のセクシーさを前面に打ち出したアイドル路線に変更がなされる。
ちあきなとっては不本意な路線変更だった。それから30年後、本人の口からこう語られている。(注2)
(「雨に濡れた慕情」については)こういうデビュー曲でよかったわと思っていたんですけど、それが「四つのお願い」で、ああ、こりゃダメだ、この曲で私も終わりだと思った(笑)。私はどうも根が暗いせいか、ああいう明るい歌はダメなんですよ。
ところがその明るいセクシー路線の「四つのお願い」と「X+Y=LOVE」が、連続してヒットしたことから念願だった『第21回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たすことになった。本人が望むものと、まわりが望むものとのギャップは、すでにこの時期から見えていたのである。
人気歌手の仲間入りをしてから2年後、ちあきなおみはドラマティックな名曲「喝采」によって、1972年の第14回日本レコード大賞を受賞した。
そこから「劇場」や「夜間飛行」など、ノンフィクション的な歌詞の作品を歌うようになっていく。「私はこうして生きてきました」は、まさにその極みともいえる歌であった。
このリサイタルで初めて披露された「ねえあんた」(作詞:松原史朗 作曲:森田公一)は、心根のやさしい娼婦と客のやりとりを一人芝居の歌で表現した大作だった。それは後世にまで名唱として語り継がれている。
ちあきなおみは9月17日で27歳になったばかりだったが、ここからほんとうに自分が心からうたいたい歌を求めて、長い旅の第一歩を踏み出していく。
自身のヒット曲や野心的なオリジナル曲を柱としながらも、昭和初期の「人生の並木路」やシャンソン、ジャズのカヴァーなどに挑戦して、芸域を広げていったのだ。
しかし、本当にうたいたい歌だけをうたうという立場を確保して、アーティスティックな活動が出来るようになるまでには、いくつもの壁やさまざまな障害が待ち受けていた。彼女が選ばねばならなかったのは、茨の道だったのである、
(このコラムは2014年10月22日に公開されました)
(注1)引用元日刊ゲンダイ2012年7月30日「僕の愛した歌たち 作曲家 鈴木淳」
(注2)引用元「広告批評」1989年1月号
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