西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」は1960年4月、ポリドール・レコードからシングルが発売された。
その片面には原田信夫が歌った「夜霧のテレビ塔」という曲が入っていた。当初のレコード・ジャケットでは本名の「西田佐智子」と表記されていたし、原田信夫の顔写真も掲載されていた。
当時は45回転のドーナツ盤が出て間もない時期であり、A面とB面に異なる歌手の楽曲が収録されるのはよくあることだった。
それは西田佐知子にとって4枚目のシングル盤だったが、発売した後もそれほどヒットしたというわけでもなかった。
その年の10月、西田佐知子の運命を変える女性ディレクターがポリドールに入社した。
西田佐知子の制作担当だった五十嵐泰弘とともに、現場で制作に携わることになったのは、27歳の藤原慶子であった(彼女はまもなくヒット曲を続出し、後に「おけいさん」の愛称で知られることになる)。
当時は2年前から吹き荒れたロカビリー・ブームの影響で、若者たちの間ではカヴァー曲による和製ポップスがヒットしつつあった。
その年の10月に正式に発足する東芝レコードでは、森山加代子が「月影のナポリ」と「メロンの気持ち」を連続ヒットさせていた。ダニー飯田とパラダイスキングの「悲しき60才」も8月に発売されて大ヒットし、ヴォーカルの坂本九が一気に人気者になった。
おけいさんはジャズ出身でリズム感のいい西田佐知子に、外国のカヴァー曲を探してきて歌わせようと企画した。その時に相談に乗ってくれたのが、洋楽部の先輩ディレクターだった松村憲男である。
おけいさんが入社して3作目に手がけた「コーヒールンバ」に、松村は最初から着目していたという。もともとはスペインの曲で、日本語にすると「コーヒーを挽きながら」というタイトルだった。
インストルメンタルだけの曲で、それを「ポリドールアワー」っていうラジオ番組でかけたら、その晩にもう反応があって、これはいけると思ったんだ。それで邦楽課でカバーを作ればいいと推薦して、五十嵐さんが西田で歌わせたんだね。「コーヒールンバ」ってタイトルは僕がつけたもの。西田はレコーディングとの当日になっても、曲を覚えてないって言うんで、僕がピアノでレッスンしたんだよね。リズム感が良い子で、すぐに歌えた。
1961年9月に発売された「コーヒールンバ」は爆発的なヒットとなり、西田佐知子は年末のNHK紅白歌合戦に出場することが決まった。
ここで幸運だったのは、その頃に東京と大阪でそれぞれに独立した個人が立ち上げた有線放送が軌道に乗って、パチンコ屋や飲食店などの繁華街から、もっとディープなネオン街にも進出していたことだ。
有線放送のおかげで1年以上前に出した「アカシアの雨がやむとき」に、ふたたび注目が集まったのである。そのタイミングで、西田佐知子をメインにしたジャケットのレコードも再発売された。
まったくタイプの違う楽曲が同時にヒットしたことで、西田佐知子は1962年になってスターの座を確かなものにしていった。
1962年の年末に放送された『第4回輝く!日本レコード大賞』でも、ロング・セールスが評価されて「アカシアの雨がやむとき」に特別賞が授与された。
さらには浅丘ルリ子と高橋英樹が主演して、西田佐知子も本人の役で出演した日活映画『アカシアの雨がやむとき』が1963年に封切られた。
やがて「アカシアの雨がやむとき」は、60年安保闘争の学生デモと機動隊の激突で命を落とした東大生、樺美智子さんの鎮魂歌として伝説化していくことになる。
テレビ番組で当時の世相を反映する出来事として安保闘争、とりわけ樺美智子死亡への抗議デモが映像で流れるとき、「アカシアの雨がやむとき」が流れることが定着した。
60年安保の「鎮魂歌」という意味合いで語られるのはその後のことで、「アカシアの雨がやむとき」はいつしか激動の昭和を代表するスタンダード・ソングになったのである。
(注)有線放送は1961年(昭和36年)6月1日、宇野元忠が大阪府大阪市において個人事業として創業し、数年間でネットワーク化するまでになった。東京の新宿では1962年 (昭和37年) 4月に工藤宏が創業して3年後に組織を法人化、商号を株式会社日本音楽放送とした。
日活映画『アカシヤの雨がやむとき』
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