小田急線 の祖師ヶ谷大蔵駅から南に歩いて3~4分のところに、西部邁さんが常連として通った小さなバーがある。
名前は「Rose(ローズ)」、地元の常連のほかに音楽関係者の姿も見られる。
店のママは坂本ナポリさん、若い頃は音楽事務所に勤務していた洋楽ファンで、実験的ポップス・ユニットのSPANK HAPPYのマネージャーだったこともある。
およそ4半世紀は音楽関係の仕事に従事していたが、50歳で辞めてサロン的なCafe & Barの「ローズ」を開いたという。
しかし全く経験ないまま、生まれて初めて飲食店を経営してみたが、なかなか水商売は大変だと思って落ち込んだ時期があった。
そんなある日突然、客が誰もいない店のドアがギギーっと開いて、カウンターの中で座っていたナポリさんが立ち上がると、小柄な老人が「いいかね?」と言って、スッスッと入ってきた。
それが全盛期の『朝まで生テレビ!』で顔も声もよく知っていた保守派の論客、元東大教養学部教授で経済学者の西部さんだった。
それ以来、顧問をなさっている雑誌「表現者」の編集会議や座談会の後などは、一緒だった方たちを連れてきてくださいました。
お一人でもよくお見えになりましたが、最初に来た時から歌がお好きでしたよ。
来ると先生のために用意してある三橋美智也のCDを、必ずかけるようにしていました。
先生は北海道生まれだったからか、素朴さを失ってはいけないとおっしゃっていましたね。
店でよくかかっているのはジャズやロック、50年代から80年代までの洋楽、ジョアン・ジルベルト、トム・ウェイツ、チェット・ベイカー、そして先生の好きな三橋美智也‥‥‥。
「ローズ」に顔を見せたのは1月9日のことで、店がはねるまで静かに飲んでいて、最後は常連さんと一緒に食事をして別れたという。
ナポリさんは1月20日の0時に店を閉めて自宅に戻ったが、なぜかそのまま眠れずにジェフ・バックリィの「ハレルヤ」をエンドレスで、朝までずっと聴いていた。
その時間に西部さんは一人、多摩川に入水していたのである。
訃報を聞いて筆者がすぐに思い出したのは、敬愛する音楽家の中村八大さんが残したこんな言葉だつた。
歌謡曲を素直に心から愛せる人間は人生に対していちばん正直な人間だと思う。
西部さんはほんとうに歌謡曲を心から愛していて、庶民の一人としていつも孤独に唄っていた。
「庶民は好きだが大衆は嫌いだ」といって、「この私こそ生粋の庶民の友であり、この私こそ筋金入りの大衆の敵なのだ、と名乗りを上げたい」と、著書でも述べていた。
だから自分が聴いてきた歌謡曲の数々を、心から愛していたのだと思うと納得がいく。
筆者も何度か飲みながら話をさせていただいたが、ほんとうに歌が好きなので、話の流れかからすぐに歌が出てくる。
そして驚くべき記憶力で、軽くつぶやくように口ずさむと、ほとんどの歌を歌詞も見ずに1番だけでなく2番、3番と唄った。
高音が気持ちよく伸びて、とてもお上手だった。
とりわけ強く印象に残っているのは、最初に会ったときに「病葉(わくらば)」に関する考察を語って、それから唄った「川は流れる」である。
この歌は仲宗根美樹のオリジナルが1961年の秋から翌年にかけてヒットしたが、60年安保反対運動の1年後だったという時代背景からか、暗さの中に冷たい光がさしてくる歌だ。
そこのところは同じ時期にヒットしていた、西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」にも通じている。
どちらも西部さんの愛した歌だった。
西部さんといえば、どうしてもこの歌を唄ったときのことが思い出される。
きっと流れる川を見ながら、死を思う瞬間があった人なのだ。
公的な活動を終えて身の回り祖整理したら自裁死をするかもしれないと、最初から感じていたせいなのかもしれない。
1月20日の大寒の日の深夜、西部さんは新宿のバーを後にしてから一人になり、そのまま翌朝に多摩川にて入水したと報じられた。
そのときにナポリさんはエンドレスで、朝までジェフ・バックリィを聴いていたという。
不思議なことにジェフ・バックリィも1997年に、ミシシッピ川で泳いでいた際に溺死していた。
西部さんは流れる川を見て、「川は流れる」が頭をよぎったのだろうか。
先生、さようなら。
どうか安らかにお眠り下さい。
(注)「ローズ」の住所は東京都世田谷区砧8-6-24 中村ビル101、電話番号は公開していません。営業時間は19時~24時。