1965年5月11日に行われたシルヴィ・バルタンの東京公演後に、朝日新聞に載った「“よう精”にも似た魅力」と題した記事は、「アイドル」と「ロック」という新しい言葉が、いよいよ市民権を得ていく時代を表している内容だった。
純白の上着とスラックスで舞台に飛びだし、アクセントの強い身ぶりで踊りながら歌う 「シルビー・バルタン」 の公演 (11日東京、サンケイホール) はすさまじい “アイドル” で、圧倒する。 高校生らしい年代を中心とした客層も、この扇情的な彼女のステージに刺激されて、口笛や叫び声をあげてこたえる。
清潔な退廃ムードといった妙な持味があるし、ロックの洗礼をうけた現代的な “よう精” のような魅力である。「祭りの気分」「私を愛して」などアンコールをふくめて十四曲たてつづけに歌いまくったが、映画でもなじみの「アイドルを探せ」のヒット曲はため息のようなフィーリングでやはりききものだった。
「アイドル」の語源はラテン語の「idola(イドラ)」にあり、真実(イデア)に対する幻影や虚像(イドラ)を表した。それが人々に崇拝される対象となる彫像や絵画などの「偶像」を示すようになり、さらには心酔される人気者という意味で使われるようになった。
エンターテイメントの世界で英語の「idol(アイドル)」が使われたのは20世紀に入ってからのことで、アメリカでは時代を象徴するスターだった若き日のフランク・シナトラや、「キング・オブ・ロックンロール」と呼ばれたエルヴィス・プレスリーなどが対象となった。
ロックンロールが上陸した日本では1958年からロカビリーブームが起こり、少年少女や若者たちを熱狂させる人気者が「アイドル」と呼ばれ始めた。
新興楽譜出版社が出していた「ミュージックライフ」1961年11月号に、その頃のニュアンスが伝わるこんな文章が残っている。
私たちのアイドル、ロックンロール歌手が大挙出演して製作された東宝映画“檻の中の野郎たち”と“青春を賭けろ”の二本でしたね。ミッキー・カーチス、山下敬二郎、寺本圭一、坂本九、ジェリー藤尾、水原弘……といった人気歌手が総出演しました。
当時は映画からヒット曲や名曲が生まれた時代で、『青春を賭けろ』からは第1回レコード大賞に輝いた「黒い花びら」(歌:水原弘)、ちあきなおみの歌で有名になる「黄昏のビギン」の原曲が『檻の中の野郎たち』から誕生している。
1960年代に入ってからはエルヴィスに憧れて歌手になった坂本九を筆頭に、カヴァー・ポップスを歌う森山加代子、弘田三枝子、田代みどり、木の実ナナなどが「アイドル」と呼ばれた。
だが20歳をすぎれば一人前のスターとして扱われて、いつまでもアイドルと呼ばれていたわけではない。そんな時代に「アイドル」という言葉を日本に定着させたのが、フランスの妖精といわれたシルヴィ・バルタンである。
エルヴィス・プレスリーやブレンダ・リーがお気に入りだったというシルヴィ・バルタンは、デビュー当初は「悲しき雨音」や「ツイスト・アンド・シャウト」など、アメリカン・ポップスをフランス語でカヴァーして次々にヒットさせていた。
彼女はロックンロールに音楽的なルーツを持ち、日本の若手歌手たちと同じような状況のなかから登場してきた歌手だった。
フランスで1964年2月26日に公開された音楽コメディ映画『Cherchez l’idole(原題:アイドルを求める)』は、エルヴィスのカヴァー曲で人気者になったロック・シンガーのジョニー・アリデイが主演で、若手の歌手や映画スターたちが出演していた。
シルヴィー・バルタンはこのとき19歳、人気が急上昇していた有望株のひとりだった。
映画は日本でも秋に公開されることになり、タイトルは『アイドルを探せ』に決まった。だがシャンソン界の大御所だったシャルル・アズナヴール以外は、日本で知られていない出演者たちばかりだったので、普通に公開してもヒットする可能性は少ない。
そこで映画を宣伝するために音楽好きの若者をターゲットにして、主演しているジョニー・アリディのレコードを売り出すことになった。
しかしフランスでは圧倒的な人気を誇るジョニー・アリディも、日本ではまったく無名で、期待よりは不安のほうが大きかった。そのために、映画ではわずかな登場シーンしかなかったにもかかわらず、日本人受けする美貌の持ち主だったシルヴィ・バルタンを前面に打ち出すことにした。
まず主題歌の「La plus belle pour aller danser」が、映画と同じタイトルの「アイドルを探せ」と名付けられた。次にレコードにも映画のポスターにも、彼女の横顔の写真をアップで使った。
フランスのポスターにシルヴィ・バルタンは名前しか出ていないが、日本では主演のようにも思える扱いだ。、それが町中のあちらこちらに貼られると、人気が出るにしたがって盗まれる例も出てきた。
作戦はものの見事に的中した。日本の若者たちはジョニー・アリディに無反応だったが、「アイドルを探せ」のシルヴィ・バルタンにはすばやく反応したのである。
レコードが発売されるとすぐにラジオから火がつき、リクエストチャートの1位になって爆発的なヒットになっていく。ハスキーな声のシルヴィ・バルタンが歌っている姿や表情を見たいと、大勢の若者たちが映画館に足を運んだおかげで、映画も予想を上回る観客を動員できた。
劇中でシルヴィ・バルタンが登場するのは、「アイドルを探せ」1曲を歌うシーンだけだった。それでも観客から不満の声はあがることはなかった。歌っているシルヴィ・バルタンを観ることだけで、観客はもう十分に満足だったのである。
レコードと映画がどちらもヒットしたことによって、「アイドル」という存在が日本でふたたび身近なものになった。
それを決定づけたのが1965年5月の来日公演で、シルヴィ・バルタンは日本のファンから大歓迎を受けて、コンサートツアーも大成功に終わったのである。
ところで1964年2月から日本でもレコードが発売されるようになったビートルズは、当初はイギリスで人気が沸騰しているアイドルとして売り出された。
そして1965年の11月にビートルズが主演した映画『Help!』が日本で公開されることになったが、そのニュースが流れたのはシルヴィ・バルタンが来日していた時期だった。
日本の配給会社は11月に公開する映画『Help!』に『ヘルプ! 4人はアイドル』という邦題と、「世界のアイドル“ビートルズ”第2作」とコピーをつけた。
レコードの発売元だった東芝音楽工業もまた5枚目のアルバム『Help!』を、『ヘルプ!4人はアイドル』という邦題をつけて発売したのだ。
こうして「アイドル」という言葉はこの年に市民権を得て、それからは普通の日常会話に出てくる日本語になっていく。
考えてみればビートルズもまたジョン・レノンとポール・マッカトニーという、エルヴィスに衝撃を受けた少年たちによって作られたロック・バンドだった。
(注)本コラムは2015年2月26日に初公開したものを改題し、加筆修正しました。
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