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パティ・スミス少女時代①〜初めて歌った曲、初めて買ったレコード、そしてリトル・リチャードの衝撃

2018.09.23

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パトリシア・リー・スミス。
後に“パンクの女王”と称されるようになるパティ・スミスの本名である。
1946年12月30日、彼女はイリノイ州シカゴのサウスサイドで生まれた。
その日は暴風雪の月曜日だったという。
両親は典型的な労働者階級のカップルだった。
時代は第二次世界大戦直後で、アメリカもまた戦争で受けた深い傷から立ち直るために必死だった。
悪化する経済状況、劣悪な労働条件、困窮する庶民の生活…そんな中、二千万人の復員軍人たちが仕事を求めていた。
工場でア働く父、ドラッグストアの店員だった母。
長女として生まれた彼女には、すぐに弟と二人の妹ができた。

「私が人生で初めて歌った曲は“Jesus Loves Me”だった。シカゴの家の前のポーチに座って、猿を連れたオルガン弾きが来るのを待ちながら歌っていた自分の姿を憶えているの。その頃、ラジオから流れていた曲も憶えている。ジョー・スタッフォードの“Shrimp Boats”がヒットしてたわ。」





1951年、彼女が4歳の時に一家はシカゴを離れてペンシルベニア州フィラデルフィア北部の街に移り住む。
そこは労働者のために用意された仮設住宅だったという。

「漆喰の塗られたバラックで、野生の花が咲く寂し気な野原を一望できる家だったわ。私たち住民はその野原を“ザ・バッチ(領地)”と呼んでいたの。暖かい季節には、子供達がかけまわっている間、大人達は煙草を吸ったり、たんぽぽ酒を飲んだりして過ごしていた。ひな菊の輪を作って首飾りや冠にしたのを憶えてるわ。夕方になると蛍を集めてガラス瓶に入れて、その光を眺めたり、指にとまらせて指輪に見立てたりしたわ。」


両親は子供達が創造力豊かな感性を持つように育ててくれたという。
母親はいつも彼女におとぎ話を聞かせた。
父親は読書家で常に新しい情報を吸収して家族に話してくれた。
当時、彼女の家にはテレビはなかったが、その代わりに空想する楽しみを手に入れたという。

「初めて家にレコードプレイヤーが来たときのことを憶えてるわ。ランチボックスよりもちょっと大き目なサイズで、子供達には最初に二枚のレコードを与えてもらったの。“Tubby the Tuba”と“The Big Rock Candy Mountain”という曲のシングル盤だった。それらが回りだして世界を生み出すのを私は毎日のように満足そうに眺めていたわ。初めて自分で買ったレコードはハリー・ベラフォンテが歌う“Banana Boat Song”よ。」





1953年、6歳になった彼女はロックンロールの洗礼を受ける。
その時のことを彼女は鮮明に憶えているという。

「日曜日のことだった。母と手をつないで日曜学校に行くところだったの。母は“不思議の国のアリス”に出てくる白いウサギのような手袋をしていた。母がそれをはめると特別な感じがしたので、私はその手袋にとても憧れていたわ。私たちがボーイスカウトのクラブハウスの前を通りかかった時に、窓から聴いたこともない音楽が流れてきたの。次の瞬間私はその場に立ち止まって、手袋が脱げるほど勢いで、母の手から自分の手をもぎ取った。まったく未知でありながら、とてもよく知っているような気がしたわ。それがリトル・リチャードの“Tutti Frutti”と教えてもらうのは後日のこと。だけど、それが私にとってのロックンロールの洗礼だったわ。」




<参考文献『ジャスト・キッズ』パティ・スミス (著)、にむらじゅんこ/小林薫 (翻訳) 河出書房新社>
<参考文献『パティ・スミス完全版』パティ・スミス (著)、 東 玲子 (翻訳) 河出書房新社>
<参考文献『パティ・スミス―愛と創造の旅路』ニック・ジョンストン(著)鳥井賀句 (翻訳)/ 筑摩書房>

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