写真家のヘンリー・ハーグリーブス氏とケイトリン・レヴィン氏は、「悪名高い歴史上の独裁者たちがどのような食生活を送っていたか」というテーマの写真集を制作しようとしていた。さらに、独裁者たちが、自らに反抗的な人々を罰するための手段として、どのように食料を利用していたかについても興味を持っていたという。しかし2人は、そのプロジェクトを始めてすぐに、飢えと飢えがもたらす苦しみは、現在も世界中で拡大している問題だということに気がついた。
♪「Tom Joad – Part 1」/ウディ・ガスリー
その男の名はウディ・ガスリー。ボブ・ディランやブルース・スプリングスティーンを筆頭に、1950年代以降に出現したアメリカのフォークシンガーたちは、ほとんど例外なくウディ・ガスリーに影響されていると言っても過言ではない。
彼の遺した作品に、1930年代の“ダストボウル(土地の荒廃による砂嵐)期”のアメリカ(オクラホマ)の放浪農民の絶望や気概を的確にとらえた楽曲を収録した、その名も『Dust Bowl Ballads』(1940年録音)というアルバムがある。そこには、同時代の農民たちの姿を描いたジョン・スタインベックの小説『怒りの葡萄』の主人公トム・ジョードのことを歌った曲が収録されている。
砂嵐による不作で、銀行からの借金が返せなくなった貧農のジョード一家。「もう少し返済を延ばして欲しい」と頼む貧農の彼らに対して、機械化された大規模農場経営を目指す銀行や地主は門前払いをくらわせる。あばら屋を壊され、祖父の代からの土地を奪われた農民たちは、仕事を求めてカリフォルニアへと向かうが、そこも決して“約束の地”ではなかった…。
そんな農民たちがなめた辛酸を、ウッディは歌にしたのだ。自身は農民ではなかったが、土地をなくして流浪する農民たちと共に旅し、彼らの気持ちを代弁するような楽曲を紡ぎ、歴史的ドキュメントとしても価値のある録音を遺した。
ウディ・ガスリーは生まれつき反抗的な人間だったわけではない。むしろ気の弱い、従順な子供だった。
父親と離婚した母親がハンチントン病と云う難病にかかり、自分の感情をコントロールできなかったために、息子のウディに理不尽な暴力を加えた。ウディはそんな母親に対して、愛情と恐れの入り混じった感情で接せざるをえなかった。いずれにせよ彼は不幸な子供として人生をスタートしたのだったが、だからといって、ひねくれたり、反抗的であったことはない。
ウディ・ガスリーをプロテストに結びつけたものは、内的な性格と云うよりは、外的な事情だった。17歳の時に、アメリカは大恐慌に突入した。だから青年期は、暗い時代環境のなかで過ぎた。そんな暗い時代を、多感なウディは不安そうに生きたのだ。
1935年、23歳の時に彼が暮らしていたオクラホマが“ダストボウル”と呼ばれる強烈な砂嵐に見舞われた。砂嵐はオクラホマじゅうの農園を砂で覆い尽くした。続いてイナゴの大群が襲ってきて、わずかに残った農作物をすべて食い荒らしていった。
周辺で暮らしていた人々は、ことごとく家や農場を売り払って、新しい天地を求め、カリフォルニアへと移住していった。だがそんな彼らを待っていたのは、非常に過酷な運命だった。ジョン・スタインベックが『怒りの葡萄』の中で描いたのとまったく同じ運命が、彼の知り合いたちに襲いかかってきたのだった。
ウディはカリフォルニアに旅立つ人々に随伴して、故郷のオクラホマを捨てた。だが別に、金や生活に困っていたわけではなかった。故郷を捨ててカリフォルニアを目指す人々を見ていると、自分もまたそうしなければ申し訳ないような衝動に駆られただけなのだった。
オクラホマを出発した時、ウディにはすでに妻子がいた。しかし、その妻子の生活を本気になって心配した形跡はないという。捨てられた妻子は自分たちの力だけで生きていかなければならなかった。
また、ウディほど評価の別れるアーティストはいないだろう。進歩的な人々からは“アメリカの良心”として敬愛される一方、保守的な人々からは“アカの屑”として蔑まれる。実際、ウディはアメリカ共産党の一員として自負していたのであるが、正統派の共産党員の目からすれば、ふしだらな生活に沈殿するだらしのない日和見主義者にすぎなかった。
1940年代後半になると、ウディにも母親と同じハンチントン病の兆候が現れはじめ、1950年代なかば以降は、入退院を繰り返しながら次第に廃人となっていった。そして1967年、46歳でこの世を去った。





