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日本で最も早くからボブ・ディランをコピーして歌っていた加藤和彦

2023.10.16

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1960年代後半にフォーク・クルセダーズのメンバーとしてブレイクを果たし、70年代にはサディスティック・ミカ・バンドを結成、その長いキャリアの中で「帰って来たヨッパライ」や「あの素晴らしい愛をもう一度」、「タイムマシンにおねがい」など、数々のヒット曲を生み、日本の音楽シーンに多大な影響を与えた加藤和彦。

だが、意外にも子供の頃は音楽に対して、特別に関心を持ったことがなかったという。

1947年の加藤は親の仕事の都合で、各地を転々とする日々を送っていた。そのせいで友人を作るのも大変だった。

「生まれたのは京都なんですけど、家の関係で鎌倉へ行ったり、東京へ行ったりとローテーションが激しくて小学校の3年ぐらいまでしか京都にいなかったんじゃないかな。あとは東京なんですよ」
Musicman-NET第71回


音楽を聴くようになったのは中学生の頃。エルヴィス・プレスリーの映画『ブルー・ハワイ』などを観て、”アメリカ的なるもの”が好きになったことからだ。
その頃から映画音楽のレコードを聴くようになったのである。

そうこうするうちにボブ・ディランを知って関心を持ったことから、 ニューヨークを中心に新しいフォーク・ソングが流行っていることを知った。
それは1963年の夏、高校生のときだった。

ラジオの番組で中村とうようがディランを紹介していたのを耳にした加藤は、何か引っかかるものがあったので、銀座のヤマハにレコードを買いに行ってみた。
ところがまだ日本では発売されていなかったので、アメリカから輸入盤をわざわざ取り寄せることになった。

「じゃあ、取り寄せてください」って手続きして。なんかいっぱい書類書くのね。
で、待っていると、三カ月くらいして来る。船便でね。
で、「来ました」って取りに行ったら、何か間違えたのか、楽譜も一緒に来ちゃったわけ。ソングブックみたいなのがね。
それにギターのタブレットとか書いてあった。
(加藤和彦/ 前田祥丈(著)牧村憲一(監修)「エゴ 加藤和彦、加藤和彦を語る」 SPACE SHOWER BOOks P12)


そこで「ああ、ギター弾きたいな」と思ったのが、その後に進む音楽家の道を決定したとも言える。

ディランのセカンド・アルバム『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』は、1963年5月の末にアメリカで発売されたが、まだ日本では発売すらされていなかった。
日本でディランのレコードが発売になるのはそれから1年半後、1965年12月の『ボブ・ディラン!』が最初だ。
おそらく加藤は日本で最も早くからディランのレコードを聴き、コピーして歌っていた若者の一人だったのである。

ボブ・ディランに対して感じた何か引っかかるものについて、加藤和彦は「ボブ・ディランそのものと言うより、背後にあるボヘミアン(放浪者)的なものに魅かれたんだと思います」と答えている。
幼少時代から一箇所に定住することなく、引越しで各地を転々としていた加藤にはいつしか、ボヘミアン的な感性が培われていたのかもしれない。

ところでボヘミアン(放浪者)という言葉で思い出すのは、ディランが敬愛していたフォークシンガーの先駆者、ウディ・ガスリーだ。
大恐慌時代のアメリカを放浪していたウディ・ガスリーは、“ダスト・ボール・トゥルバドゥール”(砂嵐の吟遊詩人)と呼ばれ、旅の中で各地に伝わる歌を集めながら、自身でも数え切れないほどの歌を書いた。

ウディ・ガスリーの爪弾くギターの音、そして歌詞が映し出す風景とそこに生きる人たちに惹かれたディランは、アコースティックギターを手に入れてそれらの曲を覚え、1961年にはガスリーのいる病院に会いに行って師事もしている。

加藤が魅かれたというボヘミアン的なものとは、ディランが受け継いだウディ・ガスリーの世界でもあったのだ。

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