1960年代後半にフォーク・クルセダーズのメンバーとしてブレイクを果たし、70年代にはサディスティック・ミカ・バンドを結成。その長いキャリアの中で、「帰って来たヨッパライ」「あの素晴らしい愛をもう一度」「タイムマシンにおねがい」など、数々のヒット曲を生み、日本の音楽シーンに多大な影響を与えた加藤和彦。
だが、意外にも子供の頃は音楽に対して、特別に関心を持ったことがなかったという。
1947年生まれの加藤は、親の仕事の都合で各地を転々とする日々を送っていた。そのせいで友人を作るのも大変だった。
「生まれたのは京都なんですけど、家の関係で鎌倉へ行ったり、東京へ行ったりとローテーションが激しくて、小学校の3年ぐらいまでしか京都にいなかったんじゃないかな。あとは東京なんですよ」(Musicman-NET第71回より)
音楽を聴くようになったのは中学生の頃。エルヴィス・プレスリーの映画『ブルー・ハワイ』などを観て、”アメリカ的なるもの”が好きになったことからだ。その頃から映画音楽のレコードを聴くようになったのである。
そうこうするうちにボブ・ディランを知って関心を持ったことから、 ニューヨークを中心に新しいフォーク・ソングが流行っていることを知った。それは1963年の夏、高校生のときだった。
ラジオの番組で、中村とうようがディランを紹介していたのを耳にした加藤は、何か引っかかるものがあったので、銀座のヤマハにレコードを買いに行ってみた。ところが、まだ日本では発売されていなかったので、アメリカから輸入盤をわざわざ取り寄せることになった。
「じゃあ、取り寄せてください」って手続きして。なんかいっぱい書類書くのね。で、待っていると、三カ月くらいして来る。船便でね。で、「来ました」って取りに行ったら、何か間違えたのか、楽譜も一緒に来ちゃったわけ。ソングブックみたいなのがね。それにギターのタブレットとか書いてあった。
(加藤和彦/ 前田祥丈(著)牧村憲一(監修)「エゴ 加藤和彦、加藤和彦を語る」 SPACE SHOWER BOOks P12)
そこで「ああ、ギター弾きたいな」と思ったのが、その後に進む音楽家の道を決定したとも言える。
ディランのセカンド・アルバム『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』は、1963年5月の末にアメリカで発売されたが、まだ日本では発売すらされていなかった。
日本でディランのレコードが発売になるのはそれから1年半後、1965年12月の『ボブ・ディラン!』が最初だ。おそらく加藤は、日本で最も早くからディランのレコードを聴き、コピーして歌っていた若者の一人だったのである。
ボブ・ディランに対して感じた、何か引っかかるものについて、加藤和彦は「ボブ・ディランそのものと言うより、背後にあるボヘミアン(放浪者)的なものに魅かれたんだと思います」と答えている。
幼少時代から一箇所に定住することなく、引越しで各地を転々としていた加藤にはいつしか、ボヘミアン的な感性が培われていたのかもしれない。
ところで、ボヘミアン(放浪者)という言葉で思い出すのは、ディランが敬愛していたフォークシンガーの先駆者、ウディ・ガスリーだ。
大恐慌時代のアメリカを放浪していたウディ・ガスリーは、“ダスト・ボール・トゥルバドゥール”(砂嵐の吟遊詩人)と呼ばれ、旅の中で各地に伝わる歌を集めながら、自身でも数え切れないほどの歌を書いた。
ウディ・ガスリーの爪弾くギターの音、そして歌詞が映し出す風景と、そこに生きる人たちに惹かれたディランは、アコースティックギターを手に入れてそれらの曲を覚え、1961年にはガスリーのいる病院に会いに行って師事もしている。
加藤が魅かれたというボヘミアン的なものとは、ディランが受け継いだウディ・ガスリーの世界でもあったのだ。
こちらも合わせてどうぞ!
特集・加藤和彦~いつも世界と日本を見ていた音楽家
Memories 加藤和彦作品集
●Amazon Music Unlimitedへの登録はこちらから
●AmazonPrimeVideoチャンネルへの登録はこちらから
TAP the POPメンバーも協力する最強の昭和歌謡コラム『オトナの歌謡曲』はこちらから。