“日本のシャンソンの女王”と呼ばれた稀代の歌手、越路吹雪。彼女にはいくつもの浮世離れした逸話が残っており、その“伝説”は今も語り継がれている。今回は伝説の歌姫・越路吹雪にまつわる“象徴的なエピソード”を、全3回に渡ってご紹介します。
──全身全霊を込めて歌い、楽屋に戻ってきたときの越路吹雪の背中は、いつも汗でびっしょりだった。彼女の舞台に漂う、一種独特の熱気。
きらびやかなドレスは、汗で光る肌にべったりとはりついていた。それは大スターを照らし出す強いライトのせいかもしれないが、実は極度の緊張によるものだった。
開演1分前になると、いつも舞台のそでで震えていたのだ。彼女の写真を撮り続けていたカメラマンの松本徳彦氏は、当時をこう振り返る。
写真家としての僕が一番好きなのは、幕が開く直前の緊張した姿でしたが、彼女の場合はシャッターの音にもこちらが気をつかいたくなるほどでした。はりつめた空気をほんのちょっとした音でぶち壊すような気がしたんです。
越路の持つ、舞台への緊張感は大変なもので、その日の朝から始まっていたという。朝食前に紀州産の梅干しを口に入れ、日本茶と京都・伊勢忠の根昆布を漬け込んだ水を飲む。朝食後、脚を広げてカエルのように前かがみになって、何回も屈伸運動をしたり逆立ちをする。
その後、ミキサーで作った野菜の皮や果実がゴロゴロと入っているジュースとハチミツを飲んでから入浴をする。昨晩の睡眠薬を汗と一緒に排泄し、肝臓の薬とビタミン剤を野菜ジュースと一緒に飲み、ヨーグルトを食べる。
舞台のある日は、朝からよく喋った。特別な発声練習などはしなかったが、「ア〜」とか「ミィ〜」とか、車の中で声を出しながら他の人よりも早く楽屋に入り、裏方さんと喋りまくる。
声帯も筋肉と同じで遊ばせておいたらダメ。使い過ぎてもいけないから、適当に運動させて初日の幕開けに上手に持っていくの。スタッフとしゃべるのも計算のうちなのよ。
開演前、楽屋に主治医の医師が咽喉の診察にやってくる。次に新宿のマッサージの先生が体を揉みほぐしにくる。それが終わると、まるで儀式のような食事が始まる。
食べたくないなぁ。でも今食べないと計算が狂うからね。ようし!イトちゃん(お手伝いさんの愛称)食べちゃうからね!
イトちゃんがテーブルに出したのは、ニンニクと生卵の入った生肉だった。その時の様子を担当スタッフがこう回想している。
あれは食べるなんてもんじゃなかったなぁ。臭いのキツい生肉をアイスコーヒーと一緒に流し込むといった感じだったよ。
さらにバターをつけた餅もよく食べた。
私は芸人という労働者だから、お餅を食べてお腹に力をつけないと唄えないから。
そう言いながら、スタッフにも餅をすすめた。これらすべてが公演中の日課になっていた。一つひとつの段取りが悪く、タイミングを外されるのが嫌いだった。開幕の時間が近づくと、誰にということはなしにこんなことを口にしていた。
嫌だねぇ舞台っていうのは。やめちゃおうか? 開幕が近くなると口汚くなっちゃうんだよねぇ…
そんなことを愚痴りながらも、一人きりになると台詞や歌詞を覚えたり、出にくい音を出したりしていたという。おかしなことに夫の内藤法美氏が楽屋に入ってくると、「あ〜あぁ…」とアクビをして横になったりしたが、彼が出て行くと、また台詞や歌詞のチェックをしていた。
夫にはキリキリしている自分の姿を見せたくはなかったのだろうか。そのうちマネージャーの岩谷時子が楽屋に入ってくる。開演5分前である。越路はもうコチンコチンに緊張し、固くなっている。
時子さん、お客様の入りは?
と言いながら、カーテンの陰から満員の客席を覗いて一言。
ねぇ、みんな私の歌を聴きにいらっしゃったお客様? 本当なの?
岩谷がこう返す。
そうでしょうね。あなたの他に今日歌う人いる?
岩谷にそう言われても、眉のあたりに深い影を宿しながら首をかしげている。こうしたやり取りが数えきれないほど二人の間で続けられてきた。
そしていよいよ開幕の直前となる。ここでもう一つの大事な儀式が行われる。1分前の“おまじない”である。幕が開く寸前に、岩谷が彼女の背中に“虎”という文字を書き、ポンポンポンと3回叩くのである。
越路は、昔から舞台に対して大変臆病だった。化粧の紅筆などを洗う水と飲料水を間違えて口に持っていくほど緊張し、誰かがそばにいないと卒倒するのではないかと思わせるほどであった。
ある日、岩谷が演劇の本を読んで発見したのが、この“おまじない”だったという。初めて試したときのことを岩谷は鮮明に憶えていた。
「何よそれ。おまじない?」
「そうなの。舞台にあがる女優は虎のように堂々としなければならないから、私があなたの背中に“虎”と書いた瞬間から、あなたは虎になるのよ。心配しないで虎になってらっしゃい」
岩谷がポンポンポンと背中を叩く。その勢いで幕が開いた舞台へ躍り出て行くのだ。役者が虎になれば、客席は猫になり、その逆に役者がおどおどとした猫になると、客席は虎でいっぱいになる。舞台と客席との微妙な関係だ。
客に威圧されないために、虎になって舞台に現れるこの方法は、神経質で占い好きの越路には効果があった。新曲が多くて、いつもよりも不安がよぎり弱気になっているとき、岩谷は“虎”と書いたその上から、ヒゲを2本描いて舞台に出したという。
今日は大虎になるのよ。だからヒゲを描いてあげる。
いよいよ開幕10秒前。スターはそれでも震えている。額とノドのあたりが汗で異様に光り始め、目元が殺気を帯び、猫が虎に変貌してゆく。
(引用元・参考文献:『聞書き 越路吹雪 その愛と歌と死』江森陽弘著・朝日新聞社)
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