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伝説の歌姫・越路吹雪〜痩せっぽちでノッポの落ちこぼれ

2023.04.27

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越路吹雪は、日本の元号が「昭和」になる前の「大正」の13年(1924年)に生まれた。戦中から戦後にかけて、宝塚男役スターとして活躍し、1951年に宝塚を退団した後は“日本のシャンソンの女王”と呼ばれるまでとなった稀代の歌手である。

独身時代は“恋多き女”といわれ、作家・三島由紀夫の恋人として取り沙汰されたこともある。作曲家の内藤法美との結婚後は、内藤がステージの構成や作曲などを手がけ、越路が亡くなるまで連れ添った。

1980年11月7日、越路吹雪は胃がんのため56歳でこの世を去った。いくつもの浮世離れした逸話が残っており、その“伝説”は今も語り継がれている。今回は伝説の歌姫にまつわる“象徴的なエピソード”を、全3回に渡ってご紹介します。

──越路が宝塚歌劇団に入ったのは、昭和12年(1937年)13歳のときである。ちょうどその頃といえば日中戦争が起き、日本は大陸侵略戦争に突っ走っていたときだった。戦火は大陸各地で燃え上がり、その中を日本軍が進み、南京陥落を祝賀するちょうちん行列が国内の各地で行われていた頃。

街角には千人針を持った婦人たちが並び、当時の新聞は日本軍の勝利を連日報道していた。長野県飯山高等女学校でも落ちこぼれ組だったが、算術、国語、地理、歴史の試験を受けて、約13倍の競争率の宝塚歌劇学校に入学したことは奇跡のような出来事だった。

宝塚を受験した理由は単純だった。学校の成績が悪く、本人も勉強が嫌いで、それを心配した父親がすすめたからだ。当時の宝塚の入学試験は、関東の人は東京宝塚劇場で、関西の人は兵庫県の宝塚で試験を受けた。

小学校卒から女学校卒までの受験生が集まったわけだが、その少女たちは皆色白で髪をカールし、真っ赤な口紅をつけて大人っぽく見せ、ほとんどが幼い頃から声楽やバレエを習っていた。

そんな中に雪焼けをした顔の彼女がいた。控え室で色白の少女たちがスズメのようにおしゃべりしているのに、ゴボウのような彼女は押し黙ったまま、綺麗に着飾った周りの人たちをもの珍しそうに眺めていた。

そんな“土の匂い”のする少女の雰囲気を、面接を担当した先生たちの心をどうとらえたのかはわからないが、「面白い子だ!」ということで彼女は合格したのだ。

宝塚歌劇学校での成績は、見るも無惨なものだった。当時、声楽を教えていた斎藤登先生はこんな風に語っている。

あれは予科1年の6月でした。彼女が僕の家にこっそりやって来て「先生、私どうもダメらしい」というんです。音楽関係の先生方は彼女の素質を認めていたんですが、ダンス、日舞、英語、国語がめちゃめちゃに悪いというんですね。

そこで僕は、ダンス教師のオソフスカヤ先生に頼みに行ったわけです。そしたら「あの子はダメ!頭はキャベツで足はダイコン!」といわれましてね。越路くんには悪いけど、的確な表現でした(笑)。

日舞の滝川末子先生も芸術家肌で、「あの子は教えても悪いところは直しませんからね。」と、厳しくいうのです。結局、及落判定の教授会では「平均点に満たない」という理由で落第になったが、「僕が責任を持つから何とか及第にさせて欲しい!」と頼み込み、やっとのことで落第だけは免れることとなりました。


こうしたことは毎学期の教授会で繰り返され、そのたびに斎藤先生が頭を下げて嘆願したという。普通だったら男性の教師がこうまで真剣になってかばうと妙な噂が飛び交うのだが、相合い傘ひとつ書かれなかった。もちろん二人は“教師と生徒の関係”だった。

当時の越路は痩せっぽちでノッポで目は三白眼で、まったく女っ気を感じさせない少女だったので、誰ひとりとしてそんな噂を立てる者はいなかった。

同期生だった大路三千緒の話によると、ダンス・日舞・英語・国語がまるで駄目でも、体の柔軟さは誰にも負けなかったという。廊下などでいつも脚を上げる練習をして、アクロバットと追分節を唄うのが得意で、寄宿舎では人気者だった。

1939年の春、宝塚歌劇学校を卒業して初舞台を踏んだばかりの頃に、岩谷時子と出会う。これが一生を決定づける運命となり、その日から親友であり、盟友であり、パートナーという関係が始まった。当時、宝塚歌劇団の編集部員だった岩谷はこんな言葉を残している。

あの人は…とにかく醒めた人で「私はスターになれる人間じゃない。スターになる人は初めからそういうように生まれている人」と言っていたんです。先輩に「しっかりしなさい!」といわれても、あの人は阪急百貨店のライスカレーを食べに行くのが生きがいみたいで、エンジンのかかるのが遅い生徒でした。


彼女の下級生には、淡路千景、久慈あさみ、南悠子といった秀才組がいた。それぞれが初舞台のときに主役をもらうという将来性のある“金の卵”だった。

ある日、可愛がっている上級生が「あんた下級生に抜かれて恥ずかしいと思わないの?」と言うと、「別にかまいません!」と答えて上級生を怒らせたという。そんな越路にも徐々にファンがつきはじめた……

(引用元・参考文献:『聞書き 越路吹雪 その愛と歌と死』江森陽弘著・朝日新聞社)

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