「本物の音楽」が持つ“繋がり”や“物語”を毎日コラム配信

TAP the POP

TAP the SONG

西城秀樹がカヴァーした作品から知る洋楽のスタンダード曲②~日本語によるロックの難しさを乗り越えたセンス

2019.12.06

Pocket
LINEで送る

西洋文化の音楽や歌が日本に入ってきたのは明治維新の文明開化からで、軍歌と唱歌による音楽教育、賛美歌、童謡となって普及していった。
大正から昭和にかけて流行歌が生まれ、二村定一やエノケンのジャズソングと呼ばれるカヴァーによる「青空」など、洋楽のポピュラー・ソングも日本語で歌われて広まった。
だがクラシックやジャズは、どちらかといえば原語で歌われることが多かった。

そこから欧米の歌や音楽のほとんどすべてが禁止された戦争の時期をはさんで、1950年代の後半から60年代にかけてアメリカからロックンロールが日本に上陸し、ロカビリーという名の流行音楽としてブームになった。


その流れで日本語のカヴァー・ポップスが誕生してきたのだが、エレキブームが広まった時期に入ってビートルズの来日公演が決まった頃、演奏と歌唱に関して支障をきたす事態が発生した。

ビートルズの音楽をカヴァーして、そこに日本語を乗せて歌うにはかなりの無理があったのである。
それまでカヴァー用の日本語詞を400曲も書いてきた訳詞家の漣健児は、ビートルズの「オブラディ・オブラダ」に挑んだものの評判が悪くて、そこから落ち込んでしまったという。

「僕も嫌々ながらビートルズの訳詞をやったんですがね。イントネーションの訳しようがないから本当に嫌々だった。ただ”I Love You”と言っている言葉すらね、ビートルズの”I Love You(アイラブユー)”が全世界に届いちゃうんですよ」


ビートルズやローリング・ストーンズ以降のバンドの楽曲には歌詞だけでなく、サウンドやビートにもゆるぎないメッセージが込められていた。
だからこそ彼らはアーティストと呼ばれるようになっていったのだが、漣健児はそうした音楽がもつ”ほんもののロック”の力の前に、どうしても日本語で差を埋められないことを痛感したという。

本業のミュージック・ビジネスが大きく進展していたこともあって、彼は潮時だとばかりに訳詞から撤退してプロデュースとマネージメントに力を入れるようになり、1970年代にはチューリップや甲斐バンドを発掘して成功を収めていく。


カヴァー・ポップスの時代が終わると洋楽では1960年代後半から、サイケデリックやプログレッシブ・ロック、ニュー・ロックと多様化していった。
そのことで日本語とロックの問題がクローズアップされてくる。

「海外進出のためにもロックは英語で歌うべき」と考えた内田裕也と、あえて日本語でなんとかしようとしていたはっぴいえんど、その間に立つGS出身のモップスのリーダーだった鈴木ヒロミツたちとの対話が雑誌で話題になった。
<参照コラム>音楽史のターニングポイント「ロックは日本語で歌うべきか、英語で歌うべきか」の論争

その時の意見としては、使う言葉が日本語でありながらビートやグルーヴが英語のままだと、どこかに不自然さが残るのは仕方がないというものだった。
そうした論争が収束に向かっていた1972年の春に芸能界のアイドルとして登場してきたのが、本来は“ロックの申し子”とさえ思わせる西城秀樹である。

彼はすぐに歌謡曲で人気が爆発していったが、ライヴではたくさんの洋楽カヴァーを取り上げている。

1973年のライブ盤『HIDEKI RECITAL』のオープニングは、英語でカヴァーしたジョン・レノンの「ラブ」から始まっていた。
だが「ラブ」に続くカーペンターズの「イエスタデイ・ワンス・モア」は、一転して意味が伝わりやすい日本語の訳詞であった。



日本語の歌詞をつけてもビートやグルーヴが不自然でない楽曲の場合、西城秀樹は基本的に日本語の歌詞で唄っている。
しかし不自然になると思える場合には、英語やフランス語でオリジナルのまま唄った。

その切替が自然だったのはおそらく、幼い頃から洋楽が大好きで英語の歌になじんで身についた、ロックのセンスがあったからだろう。

ロカビリー時代にポール・アンカが日本だけでヒットさせた「クレイジー・ラブ」も、前述した漣健児の日本詞でカヴァーしていたが、実に18歳の若者らしい勢いがあるテイクになっていた。




Pocket
LINEで送る

あなたにおすすめ

関連するコラム

[TAP the SONG]の最新コラム

SNSでも配信中

Pagetop ↑

トップページへ