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自衛隊の市ヶ谷駐屯地で自決を遂げた日に三島由紀夫が歌った「唐獅子牡丹」

2023.11.25

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三島由紀夫が自衛隊の市ヶ谷駐屯地において東部方面総監室を占拠し、憲法改正のために自衛隊の決起を呼びかけた後で、覚悟の自決を遂げたのは1970年11月25日のことだった。

何ごとにも几帳面だった三島由紀夫が事前に立てた計画は、小説や戯曲と同様に細部まで神経が行き届いていた。
およそ一年をかけて身辺をきれいに整理し、約束していた執筆や対談などの仕事を順に片付けていったのだ。

仕事知人たちとの約束をひとつづつ果たしながら、主だった友人たちにはさりげなく会うことによって、それとなく別れを告げている。

前日の夜は友人でアメリカにおける翻訳者であるドナルド・キーンとH・Sストークスに宛てて、最後の所感と死後の指示書を手紙で送って、すべての段取りを整えた。 

君なら僕がやろうとしていることを十分理解してくれると思う。
だから何も言わない。
僕はずっと前から、文人としてではなく武人として死にたいと思っていた。
(ドナルド・キーンに当てた三島由紀夫の手紙)


万事に律儀だった三島由紀夫は、原稿の締め切りを守らないことがない人だったといわれる。
遺作となった「豊饒の海」第四部の最終稿も、当日の朝に長篇の結びを書き終えていた。
そして期日どおり出版社に渡るようにと、自ら担当者に電話をかけて自宅まで取りに来てほしいと伝えた。

軍刀と二振りの短刀を収めたアタッシュ・ケースなど必要な品々を携えて、
楯の会の同士四人とともに車で大田区の自宅を出発したのは午前10時過ぎだった。
それから環状七号線に出て第二京浜に入り、品川から中原街道を経て市ヶ谷の陸上自衛隊に向かった。

荏原ランプから首都高速道路に入ると、飯倉ランプで降りて赤坂・青山方面から神宮外苑に出た。
だが時間が早すぎたのですぐに降りず、そこを二周することになった。
そのときに三島由紀夫が車内で、こんなことを口にしたという。

「これがヤクザ映画なら、ここで義理と人情の『唐獅子牡丹』といった音楽がかかるのだが、おれたちは意外に明るいなあ」


高倉健の「唐獅子牡丹」を歌いはじめた三島由紀夫に合わせて、四人の声が車内に響いていった。



当時のヤクザ映画は日陰者の地位に置かれていたために、映画専門誌はともかく一般の新聞や雑誌では、まともな批評の対象にはされていなかった。

ところがそうした映画のなかからも、熟練した監督によって個性的な作品が生まれてきて、目立たないながらも新しい表現の領域に達していることに三島由紀夫は気づいたのである。
そこで優れた作品に高い評価を与えて論じることによって、自分の影響力を行使してそうした事実を伝えていった。

会社からの制約が多くて低予算という悪条件の下で、あきらめることなく作家的な表現を追求していた監督やスタッフ、俳優たちの報われなかった仕事に対して、初めて外側から光を当ててくれた形になったのだ。

裏方として働いている無名のスタッフたちにとって、三島由紀夫のような人物が「しっかり見てくれている」という事実、「きちんと評価してくれる人がいる」ということは、仕事をしていく上で大きな励みになったのは想像に難くない。

三島由紀夫は1965年に二・二六事件の外伝的な内容を持つ短編小説を自らの手によって、製作・脚色・主演・監督した無声映画『憂国』で、軍刀を持って切腹自殺をするシーンを描いたことがある。
そうした体験によって一本の映画がどれほど裏方の見えない仕事によって支えられているのか、心の底から理解していたのだ。

映画で全編に流れていた音楽はワグナーの「トリスタンとイゾルデ」、レオポルド・ストコフスキーが指揮するフィラディルフィア管弦楽団のレコードだった。
愛と死の悲劇にふさわしい旋律を持つそのクラシック音楽は、『憂国』に込められたメッセージを世界中の観客が正確に受けとめるのに貢献した。

しかし現実に自死を決行する前に仲間とともに口ずさんだのが、高倉健のヤクザ映画「昭和残侠伝」シリーズの主題歌だった「唐獅子牡丹」だというところも、三島由紀夫らしいのである。


午前11時に面会を申し込んでいた東部方面総監・益田兼利陸将の部屋に、来客として通された三島由紀夫と若い部下たちは打合わせておいた合図にしたがって、すばやく総監を縛りあげて身体の自由を拘束し、部屋の入口を机や椅子などでバリケード封鎖した。

総監室の異変を感じて集まってきた幕僚らに対して、ドアの隙間から四つの要求を書いた紙が渡された。
その要求が入れられなければ総監を殺して、自分も切腹すると書いてあった。

市ヶ谷駐屯地の全隊員が、正午前に中庭へと集められた。


総監室の外にあるバルコニーに姿を現わした三島由紀夫は、定刻の正午になるのを待ってマイクも持たずに肉声で、力を込めて演説を始めた。
真の「国軍」として自衛隊員であるならば、自分たちに続いて決起に参加せよという、身ぶりをまじえながらの訴えだった。

しかし集まった自衛隊員たちは誰も話をまともに聞こうとせず、怒号と野次と冷笑が浴びせられた。
さらには事件を知って増えてくる報道機関のヘリコプターが上空を旋回し、演説の肉声はその爆音によってかき消されてほとんど聞こえなくなった。
地上では報道陣が次々に到着して録音機を回し、写真が撮影され、生中継のラジオ番組が始まった。

三島由紀夫は予定していた30分の演説をわずか7分強で切り上げて部屋に戻ると、事前の計画通りに覚悟の割腹で自刃した。

12時30分過ぎにはテレビとラジオが事件を報道し、衝撃のニュースは全世界へと瞬時に配信されていった。


(注)本コラムは2015年11月25日に公開されました。
・参考図書 松本徹編著「年表・作家読本 三島由紀夫」河出書房新社








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