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マヘリア・ジャクソン27歳〜短い結婚生活を経て確信したゴスペルへの想い、そして美容院と花屋の開業

2018.02.17

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アメリカの音楽史において“ゴスペル界最高峰の歌手”として君臨した伝説の黒人歌手マヘリア・ジャクソン。
1911年、ルイジアナ州ニューオーリンズにあるウォーター街で生まれた彼女は、貧しい環境で育ちながら教会で唄い始める。
7歳の時に母を失い、歌で食べていけるようになるまでには、メイドや洗濯など様々な仕事を経験したという。
16歳の若さで単身シカゴへ移り住み、ゴスペルグループ“ジョンソン・ブラザーズ”のメンバーとして音楽キャリアをスタートさせる。
彼女は二十代の中頃に、短い結婚生活を経験している。
当時の出会いと別れについて彼女はこんな風に語っている。

「1935年、当時私は24歳で、教会で歌っていないときはホテルのメイドとして働いていたわ。ある日、教会の集会でアイザック・ハッケンハルという黒人の青年から声をかけられたの。私よりも十歳年上のきちんとした教育を受けた男性が、8年生の学歴しかない私に興味を持つなんかありえないって思っていたわ。」


由緒ある私立黒人大学として有名なフィスク大学を卒業したアイザックは、化学者になるために勉強をしてきたが、当時アメリカが陥っていた不況の影響もあって郵便集配人の仕事をしていた。

「彼はとても誠実で何事にも真剣な人だったわ。私がいずれ偉大な歌手になれると信じてくれた彼は、マネージャーの仕事を買って出てくれたの。一年ほど交際して私たちは結婚したの。」


二人の新婚生活は貧しく、マへリアは歌いながら洗濯とアイロンがけの仕事を続けたという。
大恐慌の時代がさらに生活を困窮させ、とうとう夫婦共に働き口を失ってしまう。
アイクの母の紹介で、二人は化粧クリームを販売する仕事にありつく。
化学者を目指していたアイクは粉や油の混ぜ方を研究し、オリジナルの化粧水“マダム・ウォーター”を作り、マへリアはそれをツアー先(ゴスペルの集会所)で売りさばいた。
婦人たちの肌を潤す化粧水は大量に売れ、二人の生活もなんとか潤って来たのだが…この頃から夫婦の間に不協和音が響き始める。

「私がツアーをするから、二人が離れ離れになることが多く、彼はそれを不満に感じていたの。彼の人生は私と違って教会の中にはなかったわ。彼は教養のある人だったけど信仰心は薄かった。つまり彼は私のことは愛していたけれど、私の歌うゴスペルは愛してなかったの…」


アイクはしだいにマネージャーの立場を利用して、マへリアにゴスペル以外の曲を歌わせようとするようになる。
アイクの根回しもあってルイ・アームストロングが彼女に対してダンスホールやジャズクラブで一緒に歌わないか?と誘ったこともあったという。
しかし、彼女はそのステージに立つことはなかった。

「君の実力ならジャズも歌えるだろうし、偉大なブルース歌手にもなれるはずだよ!」

「黒人なら誰でもブルース歌手になれるなんて思わないで!ブルースは絶望の歌だけど、ゴスペスは希望の歌なの。」


アイクの強い説得でマへリアは何度がブルースをレッスンに取り入れたこともあるという。

「ゴスペルを歌うことで私はいつも心に喜びを感じるの。人生の重荷から解放され、罪が癒される気持ちになるわ。ブルースを歌い終わっても、私の心には残るものがなかったの…。私は人によく言うの。ブルースだけを歌う人は、深い轍(わだち)にはまって助けを求めながら絶叫している人に似ていると。私の生き方はまったく違う。」


マへリアは夫と口論を重ねる日々の中で、自分が捧げるべき歌、そして人生がどうあるべきかを明確にしていく。
アイクも次第に彼女の心は変えられないことに気づき…二人は短い結婚生活に終止符を打つ。

「教会とあれほど密接に生きている私が離婚するということは、どのような気持ちだったのか?時々たずねられることがあるわ。私は一生を教会に捧げる運命であると感じていたから、ああするしかなかったの。だから離婚は恥じていないと答えるわ。」


1937年、26歳の頃にソロ歌手として初のレコーディングを経験する。
リリースした音源「God’s Gonna Separate the Wheat from the Tares」の売り上げは地味なものだったという。


翌年27歳を迎えたマへリアは、レコーディングをきっかけに徐々に音楽関係者たちから実力を認められるようになる。

「その頃はもうメイドや洗濯の仕事にはつかなくていい収入はあったけれど、まだ歌だけで生活していくことはあてにできなかったので、新しい商売を始めたいと思ったの。私はなけなしのお金を持ち出して、歌の仕事の合間に美容研究所に通い、美容師になるために学んだわ。」


ほどなくして彼女は小さな美容院をオープンさせる。
さらに、生け花を学んで花屋を開店させたのもこの時期だった。
彼女のビジネスは成功し、教会や歌を通じて彼女を知ったたくさんの客でお店は連日賑わっていたという。

<参考文献『マヘリア・ジャクソン自伝―ゴスペルの女王』彩流社>

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