エディット・ピアフが生涯肌身離さなかった十字架のペンダントがあるという。
それは女優マレーネ・ディートリヒがピアフのためにカルティエにオーダーし、特別に作らせたものだった。
そのペンダントは二人の友情の証として、ピアフの胸元で輝き続けた…
1935年、エディット・ジョヴァンナ・ガション(ピアフ・当時20歳)は、パリの有名なナイトクラブ『ルプレー』の支配人ルイ・ルプナーに才能を認められ、専属歌手として歌うようになる。
身長が142センチしかなかった彼女に対して、ルイは「La Mome Piaf(小さなすずめ)」という愛称を与え、そのことをきっかけに“エディット・ピアフ”という芸名が誕生したという。
飾り気のない黒いドレスを着て舞台に上がり、両手を振り上げて歌詞を強調し、全身を使って歌い上げる彼女のスタイルは当時の流行とはまったく異なっていた。
最初は人気がなかったピアフだったが、人の心をわしづかみにするようなその歌声で徐々にファンを増やしてゆく。
第二次世界大戦後、ピアフは世界的な人気を得て、ヨーロッパ、アメリカ、南アメリカへと公演旅行を行うようになる。
そして1947年のアメリカ初公演で、ピアフは生涯の友となるマレーネ・ディートリヒと運命的な出会いを果たす。
ディートリヒといえばピアフよりも14歳も年上で、当時既に大女優であり、歌手としても人気を博していた。
ディートリヒは、ドイツの出身でありながらナチスドイツの横暴さを嫌い、身の危険もかえりみず戦場に赴き、連合軍の慰問を行っていた勇猛な女性だった。
ピアフもまた、激動の第二次世界大戦においてナチスドイツに対して批判的な姿勢を貫いていた人物である。
ピアフはディートリヒの人間としての生き方を心から尊敬していた。
ディートリヒもピアフのことを妹のように可愛がった。
「私はそれまで彼女よりも頭が良くて美しい女性に会ったことがなかった。彼女のような人が本物のスターなのね。」(エディット・ピアフ)
「リラックスして。私にとってあなたはパリそのもの。以前私が愛したジャン・ギャバンみたい。見かけはとても弱々しそうだけど、あなたも彼みたいに力強い人よ。」(マレーネ・ディートリヒ)
ある日、ディートリヒはカルティエに特別オーダーした十字架のネックレスをピアフに贈った。
ピアフは、それを生涯肌身離さず身に着けていたという。
ディートリヒはピアフが望んだことをできる限り手助けした。
ニューヨークのナイトクラブ『ヴェルサイユ』では、自らが衣裳の着付けを買ってでて、毎晩のようにピアフが独り言のように話し始める“愛の渇望”の聞き役となった。
1949年、ニューヨークでのボクシングの試合が決まった恋人マルセル・セルダンに対してピアフは「とても待てないの、早く会いに来て!」と手紙を書く。
セルダンは船の予約をキャンセルして飛行機でニューヨークに向かう。
セルダンがニューヨークの空港へ到着する夜は、ピアフとディートリヒの二人で迎えにいくことになっていた。
しかし、マルセルが乗った飛行機はアゾレス諸島上空で墜落事故に遭い…ピアフにとって最愛の恋人だった彼は帰らぬ人となる。
「事故は彼女が眠っている時間に起こったの。私は時間がきたらピアフを起こし、この悲劇を知らせなくてはいけない役だった…」
ピアフの寝室には医者がかけつけ、鎮静剤が準備された。
ディートリヒを含め、この悲劇を知った関係者は皆、その夜予定されていたニューヨークでのショーをきっとピアフが降板すると思っていた。
しかし…ピアフは決行したのだ。
ディートリヒは、せめて「愛の讃歌」だけはプログラムから外すように指揮者に頼もうとした。
“あなたが死ねば、私も死ぬ”という歌詞があったからだ。
その夜、ステージに立ったピアフはかつてなく感動的にその曲を歌いあげた…
ディートリヒはそれから数日間、暗いホテルの一室でピアフの手を握って過ごした。
「彼女はあらゆる手段を用いてセルダンの魂を呼び戻そうとしていたの。その狂気じみた絶望がそのうち消えることを望んでいたわ。」
ピアフは胸元の十字架のネックレスを握りしめながら、幾晩も涙を流したという…
<引用元・参考文献『ディートリッヒ自伝』マレーネ ディートリッヒ (著)、石井栄子 (翻訳)中島弘子(翻訳)、伊藤容子(翻訳)未来社>
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