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Where have all the flowers gone?花はどこへ行った②〜女優マレーネ・ディートリヒが歌った平和への願い、祖国への想い

2018.01.14

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花はどこへ行ったの?長い時を経て
花はどこへ行ったの?長い時が流れて
花はどこへ行ったの?少女達がみんな摘んでいってしまった
人々はいつになればそれを理解するのだろう…


この「Where have all the flowers gone?(花はどこへ行った)」は、“アメリカンフォークの父”と呼ばれた男、ピート・シーガーとジョー・ヒッカーソン(民族音楽研究家・収集家)の共作楽曲として1961年に著作権登録された。
翌1962年にキングストン・トリオの歌唱によってヒットして以降、当時激化の一途を辿っていたベトナム戦争への反戦歌として様々な世界中に広まっていった。
数多く存在するカヴァーバージョンの中でも、ドイツ出身の女優マレーネ・ディートリヒが歌った背景には特別なドラマがあったという。
ベルリンで生まれた彼女は1921年、二十歳で映画デビューを果たす。
1930年に公開された『嘆きの天使』で注目を浴び、アメリカのハリウッドへと招かれる。
同年に人気俳優ゲイリー・クーパーと共演した『モロッコ』でアカデミー主演女優賞にノミネートされるという快挙を遂げる。
1932年公開の『上海特急』での成功でその人気を確たるものとする。
その翌年、彼女の母国ドイツではアドルフ・ヒトラーが首相の座につき、1934年に国家元首となる。
当時、アメリカに渡りトップ女優としてその名を世界に知らしめていたディートリヒに対して、ヒトラーは親近感を抱いていたという。
そしてヒトラーは彼女に帰国を要求する。

「私はドイツには帰りません。」

ナチスを嫌っていた彼女はその要求をキッパリと断り、1939年(当時38歳)には正式にアメリカの市民権を取得する。
顔をつぶされた格好となったヒトラーは、ディートリヒが出演している多くの映画作品をドイツ国内で上映禁止とする。
ところが、彼女の“芯の強さ”は並ではなかった。
40代となった彼女は、第二次世界大戦が激化してゆく中、ヨーロッパ各地の前線でナチスドイツと戦う連合国兵士の慰問を積極的に行なう。
ヒトラーの差し金で母国ドイツでは“裏切り者”として指弾された彼女だったが、戦後、アメリカでは市民として最高の栄誉とされる大統領自由勲章を授与している。
フランスでも最高勲章の一つであるレジオンドヌール勲章を授与するなど、彼女のスター女優としての功績と影響力はとても大きいものだった。
そんな彼女も、50代を迎えた1950年以降は映画の仕事が減ったため、歌に軸足を移してアメリカやヨーロッパで歌手活動を展開するようになる。
歌手としてのキャリアを順調に重ねていっていたある日、彼女は一曲の反戦歌と出会う。
それはキングストン・トリオの歌唱によって同曲がヒットしていた1962年のことだった。

「この歌をアメリカ以外の国の人にも届けたい。」

同年、還暦を迎えた彼女は「Where have all the flowers gone?(花はどこへ行った)」を、英仏独の3カ国語でレコーディングする。
英語以外の言葉でこの歌を録音したのは彼女が初めてだったという。



戦後、彼女はドイツに帰国した際に激しい反対デモに迎えられた。
この反戦歌をドイツ語で歌ったことが、ドイツ人への挑発と受け取られ、非難の的となったという。
しかし、彼女にとっては“ドイツ語で歌う”ことにこそ重要な意味があったのである。ナチスに支配され、戦後二つに引き裂かれた祖国の運命、そして故郷を失った自分自身の悲しみを、この歌に投影していたのだ。
彼女は1975年(74歳)で引退するまで、様々な国へ出向き、この歌を大切に歌い続けたという。
コンサートで歌う時に、彼女はいつもこう言って紹介した。

「最も好きな歌です。」

祖国を相手に戦う連合兵士たちを慰問してまわった時の複雑な想い。
戦争によって東西に引き裂かれた祖国への想い。
悲しみや理不尽さに絶え抜いてきた人達への想いを込めて…

あの兵士はどこへ行ったの?長い時を経て
あの兵士はどこへ行ったの?長い時が流れて
あの兵士はどこへ行ったの?墓場にいった
人々はいつになればそれを学ぶのだろう…



<引用元・参考文献『国境を越えて愛されたうた』竹村淳著/彩流社>



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