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マレーネ・ディートリッヒ27歳〜映画監督スタンバーグとの運命の出会い、気が進まなかったオーディション

2018.07.28

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1901年、彼女はドイツのベルリン郊外にあるシェーネベルクという町で生まれた。
本名、マリア・マグダレーナ・ディートリッヒ。
彼女が6歳の時にプロイセン王国近衛警察士官だった父が病死する。
ほどなくして母親は軍人と再婚するが…その夫も第1次世界大戦で戦死する。
母親は働きながら彼女(次女)と姉(長女)にフランス語を習わせるなどして教育に力を入れたという。
当時、ヨーロッパは第1次世界大戦後の深刻な不況下にあった。
インフレが悪化し、人々の生活は苦しくなる一方だった。
不況にも関わらず、ベルリンの街にはキャバレー、カフェ、劇場が立ち並び、享楽的な雰囲気が漂っていたという。
1919年、18歳になった彼女は国立ヴァイマル音楽学校に入学し、ヴァイオリニストを目指すが…手首を痛めて音楽家の道を断念。
翌年、演劇に転向しマクス・ラインハルトの演劇学校に入学する。
翌1921年、二十歳を迎えた彼女は『ナポレオンの弟』で映画デビューを果たすこととなるが…家計を助けるために、キャバレーや劇場での仕事を選ぶ。
女優を目指してオーディションとレビュー巡業を繰り返す“下積み時代”を送っている最中に、彼女は“マレーネ・ディートリッヒ”と名乗るようになる。
この芸名は、幼い頃から自分で決めていたものだという。
1924年(当時23歳)に、助監督のルドルフ・ジーバーと結婚し、程なくして娘マリアを出産。
数年後に夫ジーバーとは別居をするが、彼がカトリック信者だったため、離婚が認められないまま籍を抜けずにいた。
女優としてのキャリアを着実に重ねていた彼女は、27歳を迎えた1928年に母国ドイツで歌手デビューも果たしている。
その当時、彼女はベルリンで4歳になる一人娘マリアと二人で暮していた。
1929年のある日、娘と一緒に食卓を囲みながら、自宅を訪れていた夫にこんな報告をした。

「アメリカの大物監督が今夜私の出演するレヴューを見に来るの…」


映画監督ジョセフ・フォン・スタンバーグが、ドイツ映画最初期のトーキー(映像と音声が同期した映画)作品となる『嘆きの天使』のヒロイン役を探しているというのだ。
それは、軽薄で思いやりもなく、夢も希望ももたない現実的で卑しくさえあるローラという踊り子役だった。
その夜、スタンバーグ監督は彼女の舞台を見終えると、すぐに楽屋を訪れてこう告げた。

「明日、私のところに来て欲しい。私の頭にはただ一つの考えしかありません。君を劇場から引き抜いて、映画女優に育てあげたいと思っています。君こそ、この役のために生まれてきたような人だ。君がダメなら、私はこの映画をやめてアメリカに帰る。」


彼は彼女を見た瞬間、運命を感じたという。
ローラ役を探すために、映画界のみならず、芸能界すべての女優を対象に幅広く人選が進められていた。
何十人という女優を面接し、何百枚というポートレートに目を通してきたが…彼が想い描くローラのイメージにぴったりの女優は発見できなかった。

「スタンバーグ監督の求めている女性は、もはやこの世のものではないのかもしれない!」


関係者の間ではこんなことまで囁かれていたという。
そんな中ディートリッヒに白羽の矢が立てられたのだ。
ベルリンで何年も下積みしてきた彼女。
助監督の妻として一人娘を抱え、生活のために舞台に立ち続けてきた彼女に、ようやくチャンスが巡ってきたのだ。
普通ならば興奮し、嬉し涙を流すところである。
ところが、当時の彼女はあまり気が進まない様子だったという。

「その頃の私は映画よりも舞台のほうを高く評価していました。その上、娼婦と言ってもいいような安キャバレーの歌い手など、やりたいとも思いませんでした。もしもそんな役を引き受けたら、厳格な軍人未亡人の母から“今度こそ芸能界から足を洗え!”と叱られるに決まってました。」


オーディション当日。
指定の時間に彼女は撮影所に姿をあらわした。
スタンバーグとプロデューサー、そして主演俳優のエミール・ヤニングスが彼女を待っていた。

「まず、メイク室に連れて行かれて、かなりタイトなスパンコールの服を着せられてヘアアイロンで髪をカールされました。アイロンの蒸気が天井まで立ち上るのを見たとき、緊張と不安で気が滅入りそうでした。」


スタンバーグがカメラテストをしたいと要求すると、彼女は気が進まない表情でこう答えたという。

「私、写真映りがとても悪いんです…」


次の瞬間、尻込みする彼女を誰かが舞台に押し出した。

「ピアニストがピアノの前に座っていました。監督は私に歌を唄うように促しました。本当は自分が唄う曲の楽譜を持ってくるように言われていましたが…私はそうしませんでした。」


スタンバーグは不安そうな彼女に一言。

「もしも楽譜を持ってきてないのなら、何でもいいから唄いなさい!」


「アメリカの歌が好きなんです…」


彼女はピアニストに、それがどんな曲なのか説明をした。
ピアニストはその曲を知らなかった。
それでも彼女は半ば強引に「You’re the Cream in My Coffee (あなたは私のコーヒーのクリーム)」を唄い出したのだ。
次の瞬間、スタンバーグはいかなる口答えも許さないといった強い口調でこう言い放った。

「これだよ!これこそまさに私が欲しかった場面だ!実に素晴らしい!君たちの今のやりとりをもう一度やってみてくれないか?すぐにカメラを回してくれ!彼に何を演奏すればいいか説明して、その歌を唄って聴かせるんだよ!」



翌1930年、28歳になった彼女は映画『嘆きの天使』に出演したことによって世界的に注目を集める存在となる。
大きく弧を描く細い眉に象徴される個性的かつ退廃的な美貌と脚線美には、100万ドルの保険がかけられていたという逸話も残っている。
同年、彼女はアメリカのハリウッドへと進出し、人気俳優ゲイリー・クーパーと共演した『モロッコ』でアカデミー主演女優賞にノミネートされるという快挙を遂げる。
1932年公開の映画『上海特急』での成功で、その人気を確たるものとする。

<参考文献『愛しのマレーネ・ディートリッヒ』高橋暎一(著)社会思想社>
<参考文献『ディートリッヒ自伝』マレーネ ディートリッヒ (著)、石井栄子 (翻訳)中島弘子(翻訳)、伊藤容子(翻訳)未来社>


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