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マヘリア・ジャクソンの生い立ち〜差別や貧しさと共に暮らした時代、音楽で溢れていたニューオーリンズ

2019.04.07

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マヘリア・ジャクソン。
アメリカの音楽史において“ゴスペル界最高峰の歌手”として君臨した伝説の黒人歌手だ。
1911年10月26日、ルイジアナ州ニューオーリンズにあるウォーター街で生まれた彼女は、貧しい環境で育ちながら教会で唄い始める。
幼い頃に母を失い、歌で食べていけるようになるまでには、メイドや洗濯など様々な仕事を経験したという。

「歌っているとき、私は時々涙を流すことがあるの。その時は皆さんが想像しているのとは違って、悲しいからではないの。貧しかった時代を思い出して…幸福な気持ちでいっぱいになるの。」


彼女が生まれ育った街は、鉄道の線路とミシシッピ川の土手に挟まれていた。
鉄道は家の窓をガタガタと揺らすくらいすぐそばを走っていた。
その辺りは人種の坩堝(るつぼ)で、黒人、フランス人、クリオール人(フランスもしくはスペイン系の移民)、イタリア人たちが共に暮す貧しい地域だった。
黒人たちの多くは、川の周辺や波止場、蒸気船、バナナ船などで働いていた。
彼女の父親は、昼間は川の埠頭で綿花の運搬を行い、夜は散髪屋になり、日曜日は牧師になって説教をした。
父親がなんとか家族が生活していけるお金は稼いでいたものの、一家は(他の黒人家族と同じく)貧しい暮らしを強いられていた。

「私たちは部屋が一列に並んでいる“ショットガン”と呼ばれていた古い掘っ建て小屋に住んでいたわ。雨は家の外ばかりでなく家の中にも容赦なく降ったから、いつも雨水をホウキで掃き出していたわ。そのおかげで、床はゴシゴシと洗われていつもきれいだったわ(笑)」


当時は、白人の子供が学校に行くことは義務だったが、黒人の子供は雨が降ったときだけ学校に行った。
晴れた日には、黒人の子供は畑に出て、綿花を摘むのが当然だと考えられていたのだ。
黒人の学校は5年生までしかなかったが、それは、他ならぬ先生自身が“そこまで”しか教えられなかったことと、白人が黒人に対してそれ以上高い教育を受けさせることを好まなかったからだ。
様々な人種差別がまかり通っていた時代、黒人たちの唯一の社交生活は教会の中にあった。
彼女は幼い頃、川の土手でよく遊び、教会を遊び場にしていたという。

「友達と土手に座ってウクレレを弾いて歌ったわ。流木でおこした焚き木でサツマイモを焼き、魚やエビなど欲しいものは何でも捕まえて食べていた。教会では日曜日学校の聖歌隊に入って歌っていたわ。背は小さかったけれど、私は誰よりも大きな声で歌えたの。」


彼女が育ったニューオーリンズの街には、いつも音楽が溢れていた。
右を向いても左を向いてもブラスバンドがあった時代だった。
ミシシッピ川のショーボート(演芸船)では、毎日のように音楽が演奏されていて、夜の街ではキャバレーや小さな酒場でジェリー・ロール・モートンやキング・オリバーなどの音楽家たちが生演奏を披露していた。
まさにリアルタイムのジャズやブルース、そしてラグタイムがいたるところで演奏されていた時代だった。
戦後の人々がテレビを買い求めたのと同じように、当時は手動式の蓄音機を誰もが手に入れようとした。



「ショットガンが立ち並ぶ地域ではベッシー・スミス、マミー・スミス、マ・レイニーといった人気の黒人ブルース歌手のレコードがいつも流れていたわ。家と家の薄い仕切りを通して、開いた窓を通して、ブルースを耳にしない日はなかった。」


そんな環境で育った彼女は、16歳の若さで単身シカゴへ移り住み、ゴスペルグループ“ジョンソン・ブラザーズ”のメンバーとして音楽キャリアをスタートさせる。
貧しい幼少期、苦労と差別の日々、様々な辛酸をなめてきた彼女だったが…歌手として大成したマヘリア・ジャクソンは、その哀しみ(ブルース)を歌にのせることはなかったという。
そして、彼女は夜の酒場で唄うことをしなかった。
自分のスタイルを貫き、ゴスペルを歌うことに揺るぎない確信を持っていた。

「ブルースは絶望の歌だが、ゴスペルは希望の歌だ。ゴスペルを歌うと重荷から解放される。罪が癒される気持ちになれる。」


<引用元・参考文献『マヘリア・ジャクソン自伝―ゴスペルの女王』彩流社>

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