ジョルジュ・ムスタキという男をご存知だろうか?
エジプトはアレキサンドリア生まれのギリシャ人という生い立ちを持つ彼は、17歳の時に一人パリへと移り住み、ピアノバーなどで働きながら、当時の音楽シーンの有名人達と知り合う。
シャンソン界の大御所ジョルジュ・ブラッサンスを信奉していた彼は、ある日、音楽仲間からエディット・ピアフを紹介される。
ピアフは無名だった彼(当時25歳)に一目惚れしてしまう…。
そして彼は、妻子ある身でありながら19歳年上のピアフと親密な関係となる。
当時、ピアフのために作詞した「Milord(ミロール)」(1959年)がヒットしたことをきっかけに、彼はソングライターとして成功を手にする。
「ピアフと出会う前の僕は、貧しく名もなかった。だけど彼女のおかげで金持ちになり、有名になり、ショービジネス界の同輩たちからは羨ましがられ、へつらわれるようになったんだ。」
その後、彼はピアフのアメリカツアーに帯同する。
飛行機に乗り、12時間かけて大西洋を横断して辿り着いたのはニューヨークだった。
「当時、彼女と僕は愛と音楽に生きていたんだ。一部の人達の間では、僕らの年齢差が話題になっていて、どうやら僕は情夫に見られていたらしい。僕はそんなことは気にしなかった。」
しかし、ピアフのお膳立てで彼が前座を務めても、客席が盛り上がることはなかった。
ある日のステージで、ピアフは彼のステージを盛り上げようとして、舞台裏でマイクを取って対旋律(カウンターメロディー)を歌いだした。
観客は彼女の声に気がついて熱狂したという。
「何もかもが“彼女のおかげ”という事実があからさまになればなるほど、僕はみじめになり…とうとう怒りを爆発させてしまったんだ。」
それでもピアフは彼の成長を期待し、ブロードウェイの劇場で上演されているミュージカルやコメディー、キャバレーで演奏されるジャズ、五番街の華やかな社交場を見せようとした。
しかし、そんな日々の中で彼は自尊心を失いかけて疲れきってしまった。
そして二人は別れた…。
「僕は一人でヨーロッパに戻ろうとした。彼女は僕に旅客機のチケットを与えることを禁じた。僕は船の三等切符をなんとか手に入れて乗り込み、船で歌う代わりに一等で航海させてもらえるように交渉した。あの破局は僕にとって財政上の破綻でもあったんだ。」
ピアフとの破局は彼を自由にした。
社会的地位のある人間達とのつきあい、贅沢と栄光、ハードな巡業、惨めな舞台裏、きらびやかなステージ、麻薬の供給人に取り囲まれたスター達の生活の裏と表…
彼はそのすべてを知り、そこから脱出した。
そして27歳になった彼は、初のスタジオアルバム『Les Orteils au soleil』(1961年)をリリースする。
ピアフの懐を飛び出してからというもの、しばらくの間、彼は仕事に情熱を感じれなくなったという。
「彼女に書いた歌の著作権のおかげで、僕は居心地のいい方へと移行していった。新人映画監督の作品のために作曲をしたり、未発表の曲を歌手仲間に提供したり…あの頃の僕は“仮死状態”だったのかもしれない。」
<引用元・参考文献『ムスタキ自伝 思い出の娘たち』ジョルジュ・ムスタキ(著)山口照子(翻訳)/彩流社>
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