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La Vie en Rose(バラ色の人生)〜エディット・ピアフが最愛の弟子イヴ・モンタンに捧げた愛の歌

2025.10.10

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5月の誕生花であり、この季節に見ごろを迎える薔薇。いつの時代も性別や年齢にかかわらず、多くの人々を虜にしてきた、まさに“花の女王”である。その歴史も長く、品種や色も豊富な薔薇の中でも、屈指の人気を誇るのがピンク薔薇だという。薔薇といえば、赤色を思い浮かべる人も多いが、初のハイブリッドティー(四季咲き性の大輪品種)とされる薔薇は、ピンクなのだ。

1867年に生み出された“ラ・フランス”という品種のバラが、ハイブリッドティーの元祖といわれている。強いダマスク香をもち、幾重にも花びらが重なるおおきな花、さらに四季咲き性で多くの花をつけるラ・フランスは、バラの歴史の転換点とされ、ラ・フランス以前の品種は“オールドガーデンローズ”、ラ・フランス以降の品種は“モダンローズ”と呼び分けられている。今日は、そんなピンクの薔薇が似合う名曲をご紹介します。


彼が私を腕に抱きしめて そっとささやく時 私の人生はバラ色になるの


フランスが生んだシャンソンの女王エディット・ピアフ。代表曲でもあるこの「La Vie en Rose(バラ色の人生)」は、今やジャンルの枠を超えたスタンダードナンバーとして世界中で愛されている。

恋多き女としても知られた彼女が、その歌手人生を通じて重ねた恋愛の数々は、“名曲との巡り合い”でもあった。マルセル・セルダンとの愛を唄った「愛の賛歌」、そしてジョルジュ・ムスタキが手掛けた「Milord(ミロール)」など、ピアフの歌からは(当時恋愛関係にあった)、男性の残り香が漂ってくる。

優雅で美しい薔薇の花をタイトルにしたこの楽曲の歌詞は、1944年頃ドイツによる占領から解放されたパリでピアフ自身が書き上げた。

当時、既にスター歌手となっていたピアフは、イタリア移民の子だったイヴ・モンタンの才能に惚れ込み、一流のシャンソン歌手に育て上げるための“特別なレッスン”を始める。

まずはジャズやポップス系といったアメリカ音楽から影響を受けていた彼の歌唱法とカウボーイファッションをやめさせ、口に鉛筆を喰わえさせて訛りを直させた。一から歌を訓練し直し、一緒のステージに立たせて、スター歌手としての“イロハ”を教え込んだ。

そのやり方は、パリの名門クラブのオーナーだったルイ・ルプレがピアフの才能を見出し、作詞・作曲家のレイモン・アッソが厳しい特訓によって、ピアフを一流歌手に育て上げた手法と同じだった。一つだけ違っていたのは、ピアフとモンタンは師弟にして、恋愛関係にあったと言うところだった。

ピアフは、映画『夜の門』にイヴ・モンタンを推薦し、映画の成功を願って2年間も酒を絶つまでして彼に入れ込んでいた。願いは叶い、映画のテーマ曲「枯葉」が大ヒットし、モンタンが世界的なスターになった頃、「もはや彼には自分が必要ない」と悟り、静かに身を引いた。

その時の想いを歌にしたのが、この「La Vie en Rose(バラ色の人生)」だった。ピアフは自分が書いた歌詞を持って、「愛の讃歌」の作曲者でもあるマルグリット・モノーに作曲の依頼をする。モノーはその歌詞を見て、“くだらない”として曲をつけることを拒否した。

1946年、彼女はなんとか自力で曲を完成させて、SACEM(仏音楽著作権協会)に登録しようとしたところ、ライセンス取得の都合上、手続きに不備が生じてしまう。そこで友人の作曲家ルイ・グリェーミュ(通称ルイギ)の名を借りて登録することとなり、そんな経緯からクレジットには、「作詞:エディット・ピアフ/作曲ルイギ」と記されることとなった。

作曲(登録)に関する経緯は諸説あるようで、事の真相は明らかにされていない。こうして誕生した「La Vie en Rose(バラ色の人生)」は、1954年公開の映画『麗しのサブリナ』の劇中でオードリー・ヘップバーンによって歌われ、世界的に知られるようになった。



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