この「ミロール」は、伝説のシャンソン歌手エディット・ピアフが1959年に歌いヒットさせたもの。
ミロール(Milord)とは英語My Lord をフランス語風に言い換えた言葉で、もともとは英国の貴族などに対する敬称だった。
いわゆる金持ちの紳士を指す“客への呼びかけの言葉”として使われており“旦那”といった意味(ニュアンス)が近いという。
この歌はそんな紳士=旦那に声をかける娼婦の歌。
ピアフの父親は大道芸人で、母親はカフェや酒場などで歌う歌手だった。
幼少期は孤独で、親戚から親戚へと転々とし、祖母の経営する売春宿で育てられた時期もあったという。
ほとんどの時間をひとりで過ごし、人気のある名曲や歌謡曲を憶えることにいつも没頭していた。
13歳になった彼女は、親戚の家での肩身の狭い生活を離れ、パリの道端で歌う仕事を選択する。
パリのあまり裕福でない地区ピゲールの路上で、観光客や住人相手に歌い続け、聴き入る人たちに使い古しの帽子をまわして生活費を得る暮らしを何年もの間続けていたという。
その小さな体で歌う姿から“ラ・モム・ピアフ(小さなスズメ)”と呼ばれたことをきっかけに、ピアフ(スズメ)という芸名がつけられた。
本名はエディット・ジョヴァンナ・ガシオン。
この「ミロール」には、港みなとを渡り歩く娼婦(日陰の女)の“粋”が描かれている。
売春宿で育った経験のあるピアフならでこそ出せる持ち味で、哀しい娼婦の身の上話や、男の失恋のいきさつなどが唄い語られた名曲である。
作曲をしたのは、ピアフの代表曲「愛の讃歌」などを手掛けた女性ソングライターのマルグリット・モノー。
そして作詞はジョルジュ・ムスタキ。
当時ピアフの恋人でもあったムスタキという男はどんな人物なのだろう?
エジプトはアレキサンドリア生まれのギリシャ人という生い立ちを持つ彼は、17歳の時に一人パリに移り住み、ピアノバーなどで働きながら、当時の音楽シーンの有名人達と知り合う。
シャンソン界の大御所ジョルジュ・ブラッサンスを信奉していた彼は、ある日、音楽仲間からピアフを紹介される。
二人は一瞬で惹かれあったという。
彼は妻子ある身でありながら、ひと時、ピアフの恋人となる。
その頃、彼がピアフのために作詞したこの「ミロール」がヒットしたことをきっかけに、イヴ・モンタンをはじめ、名だたる歌手から依頼を受けるようになったという。
79歳で亡くなるまでに生涯を通じて300以上の曲を書いた才人である。
ピアフと同じくムスタキも経験してきた、貧しくもタフな精神がこの歌の根底には流れている。
故に「笑って!歌って!一緒に踊ろう!」と呼びかける最後の言葉が深く胸を打つのかもしれない。
日本では越路吹雪(岩谷時子訳)、美輪明宏(本人訳)が、その世界観を見事に歌い上げている。
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