第1章 中村八大30歳、永六輔28歳、坂本九19歳
1961年7月21日の午後、東京・大手町の産経ホールでは人気ジャズ・ピアニストにして第1回日本レコード大賞受賞の新進作曲家、中村八大による『第3回中村八大リサイタル』のリハーサルが始まっていた。
「ウへッフォムフフィテ、アハルコフホフホフホフ……」
会場の舞台袖に立ってステージを見つめていた舞台監督の永六輔は、思わず耳を疑ってこう思った。
「はじめまして、坂本九と申します」と、今しがた愛嬌のある笑顔で挨拶されたばかりの少年が歌っている。
大舞台での緊張からか直立不動となり、明らかに足をガタガタと震わせながらである。
だが震えはともかくとして歌い方がちょっとふざけすぎだ。
そう思ったのは、歌の作詞を自分が担当していたからだった。
永六輔は驚きと怒りを胸に秘めて、リハーサルが終わるとすぐ中村八大に抗議した。
何なんですか、あれは!?
もっと歌のうまい人に歌ってほしい。
日本語を大切に歌ってほしい!
だが中村八大は「あれでいいんだよ。あれがいいんだ」と、まったく取り合ってくれなかった。
その歌はなぜか関係者の間でも、とても評判が良かった。
クレージーキャッツのハナ肇が「いい歌だな」と言うと、女優の水谷良重(現・八重子)も「こういうのヒットするのよ」と、楽屋の廊下で会話していた。
NHKの音楽バラエティ『夢であいましょう』のディレクターだった末盛憲彦も、大いに気に入って番組ですぐに取り上げることを決めた。
このとき中村八大30歳、永六輔28歳、坂本九19歳。
後に「六・八・九トリオ」と呼ばれることになる3人の「上を向いて歩こう」は、こうしてコンサートで産声を上げたのである。
第2章 作曲家に発見された作詞家
それは1959年5月のことだった。
中村八大は低予算ロカビリー映画の劇中で使う歌を10曲、翌日の朝までに作るようにという仕事を頼まれた。
日比谷の東宝本社で映画のプロデューサーだった山本紫郎と打ち合わせて、10曲を書く約束はしたものの作詞をどうしたらいいのかと考えながら、有楽町駅前にある日劇の前まで歩いてきた。
そこでなんとなく顔見知りだった放送作家と偶然に出くわした。
それが永六輔だった。
これが運命の出会いとなる。
何回か面識はあったが、それほど友達ではなかった。
しかし事態は急を要するので、藁をもつかむの心境で彼を呼びとめてわけを話した。
永六輔が快諾してくれたので、二人は一緒に中村八大のアパートヘ向かった。
二人とも作詞作曲の専門家ではなく、ピアニストと放送作家だった。
本来ならひとつずつ作詞したものに作曲するか、作曲したものに詞をつけて完成させる。
だが時間がなくてそうもしていられないので、とにかくそれぞれ勝手に10曲作ることにした。
日本を代表するソングライター・チーム、「六・八コンビ」が、こうして誕生したのである。
その10曲のなかから、映画『青春を賭けろ』の挿入歌に「黒い花びら」が選ばれた。
当初はそれを主演の夏木陽介が歌う予定だったが、あまりにも斬新なロッカ・バラードだったので、相当の歌唱力が必要だということで、ロカビリー歌手の水原弘が抜擢された。
そしてもう1本の映画『檻の中の野郎たち』では、後に「黄昏のビギン」と名付けられる歌が主演したミッキー・カーチス、山下敬二郎、守屋浩の3人によって歌われた。
またそこには出演者の一人として、坂本九が出演していて中村八大の目に留まることになった。
「六・八コンビ」の処女作となった「黒い花びら」は、それまでにない新しい感覚で若者の支持を受けて、レコードが発売になると大ヒットした。
さらにはその年に創設されたばかりの第1回日本レコード大賞で、グランプリを受賞するのである。
(後編へつづく)
12月10日 世界で一番有名な「ジャパニーズ・ソング」はこうして生まれた! 後編
協力/(株)八大コーポレーション(有)アンクル・キュウ(株)マナセプロダクション
【解説】
第1回日本レコード大賞1959年12月27日、文京公会堂で開催。大賞は、同年7月にリリースされた中村八大作曲・永六輔作詞のロッカバラード「黒い花びら」。水原弘のデビュー曲でもあり、この曲で一躍トップスターとなった。また、水原が歌手役で出演したロカビリー映画『青春を賭けろ』の挿入歌にもなっていた。
第3回中村八大リサイタル
1961年7月21日、産経ホールで19時開演。二部構成。第1部は<モダンとムードの>と題した中村八大のピアノ演奏によるジャズスタンダード集。第2部は<彼氏と彼女の>と題して、八大がこの夜のために書き下ろした新曲10曲を、ゲストの歌手や演奏家たちによって披露した。ゲストには、江利チエミ、ザ・ピーナッツ、渡辺貞夫、加山雄三など。企画への理解を示し、資金援助と人脈提供の全面的サポートに打って出たのは、リサイタルを制作した渡辺プロダクションの社長であり、八大の「音楽の先輩」だった渡邊普。
低予算ロカビリー映画
1959年夏、ほぼ同時期に公開された2本の東宝映画『青春を賭けろ』『檻の中の野郎たち』のこと。ミッキー・カーチス、山下敬二郎、水原弘、坂本九などが両作品に出演した。ほとんど同じキャスト、スタッフ、セットで撮影されたこと、カラーでなくモノクロフィルム、60分強という短さなどからも、低予算での制作状況が窺える。さらに、映画俳優ではなくロカビリー歌手を起用することで出演料も抑えた。音楽を担当した中村八大は、これらの映画で坂本九の魅力を発見することになった。
日劇
現在は『有楽町マリオン』の名で知られる場所にあった劇場。戦後は東宝映画の上映とミュージカルなどレビューとの組み合わせで運営されてきた。多くの歌手がこの劇場でステージを繰り広げてその名を高めたが、観客動員記録においては昭和30年代、興行成績の振るわない2月と8月に開催された『ウエスタンカーニバル』の盛況ぶりがマスコミの注目を集めた。
【登場人物】
中村八大(なかむら・はちだい)1931年、中国・青島生まれの音楽家。早稲田大学在学中に、ジョージ川口、松本英彦、小野満とビッグ・フォーを結成し、ジャズ・シーンを代表するピアニストとして人気を博す。その後もシックス・レモンズ、中村八大モダン・トリオ、中村八大クインテットなどを率いて演奏するかたわら、作曲家としても活躍。水原弘の「黒い花びら」のヒットを皮切りに、坂本九「上を向いて歩こう」「明日があるさ」、ジェリー藤尾「遠くへ行きたい」、梓みちよ「こんにちは赤ちゃん」など、今でも歌い継がれる多くのスタンダード・ナンバーを生み出した。テレビ番組『夢であいましょう』や『ステージ101』などでは音楽監督を務め、クラシック作品の作曲も手がけるなど多才な活動を行う。80年代以降は糖尿病のため闘病生活を送りながら音楽活動を続けたが、1992年に心不全のため61歳で死去。
永六輔(えい・ろくすけ)
1933年、東京都生まれの作詞家・放送作家・タレント。本名は永孝雄。学生時代にラジオ番組へ投稿していたことをきっかけに、CMソングの元祖として知られる三木鶏郎に認められ、放送作家としての活動を始める。主にテレビやラジオの企画や構成を担当していたが、作曲家の中村八大の薦めにより作詞家としての活動もスタート。坂本九が歌って海外でも大ヒットした「上を向いて歩こう」を筆頭に、水原弘「黒い花びら」、坂本九「見上げてごらん夜の星を」、デューク・エイセス「いい湯だな」など、昭和歌謡史に残る名曲を多数生み出した。また、エッセイストとしても独特の筆致で評価が高く、1994年に発表した『大往生』は200万部を超えるベストセラーとなり、テレビドラマにもなった。ラジオ・パーソナリティーとして番組出演する際の辛口のコメントや、江戸の文化や風俗にスポットを当てるなど筋の通った発言が、多くの文化人や芸能人に多大な影響を与え続けている。
坂本九(さかもと・きゅう)
1941年、神奈川県生まれの歌手・俳優。本名は大島九(ひさし)。エルヴィス・プレスリーに憧れて音楽の道に進み、ザ・ドリフターズやダニー飯田とパラダイス・キングを経て、1958年に歌手デビュー。1960年に発表した「悲しき六十才」で一躍スターとなる。翌年発表の「上を向いて歩こう」が、NHKのテレビ番組『夢であいましょう』の“今月の歌”に選ばれ大ヒット。海外でもリリースされ、アメリカのビルボード誌では3週連続1位を獲得、年間チャートでも第4位を記録した。その後も、「見上げてごらん夜の星を」、「明日があるさ」、「幸せなら手をたたこう」と、立て続けに話題作を連発。日本のポップス・シーンの中心的存在となる。1971年に女優の柏木由紀子と結婚。歌手活動と並行して、俳優やタレント、テレビ番組の司会者などとしても活躍し、その明るい笑顔とキャラクターで人気を得る。1985年、日本航空123便墜落事故により43歳で死去。
東芝レコードから発売された初版シングル盤。1961年10月15日リリース。
『上を向いて歩こう』佐藤剛(岩波書店)
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TAP the POPメンバーも協力する最強の昭和歌謡コラム『オトナの歌謡曲』はこちらから。