TAP the DAY

世界で一番有名な「ジャパニーズ・ソング」はこうして生まれた! 後編

2013.12.11

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第3章 作詞家の内なる「挫折」


「六・八コンビ」のソングライティングには、特別の取り決めがあった。
永六輔がこう語っている。

普段僕らが使っている言葉だけで歌詞を作ろうということが一つ。
歌の世界には、話し言葉とは違った語法がまかり通っている。
それを僕らは使わないんです。


確かに「上を向いて歩こう」は口語体で、物語の設定やシチュエーションについての具体的説明がない。
どんな理由で涙がこぼれるのか、どうしてひとりぼっちなのかさえ、何も手掛かりはないのだ。
主人公が男なのか女なのか、若いのか年配なのかも想像できない。

1960年6月15日、国会議事堂の構内で安保反対運動の先頭に立つ全学連のデモ隊と機動隊が衝突し、混乱の中で東大生の樺美智子さんの命が奪われるという悲劇が起きた。
安保条約改定は自民党の単独採決によって衆議院で可決され、参議院は議決なしで自然承認となった。

永六輔は民主主義の危機を感じて行動していた若者たちや、2度と戦争が起きないようにという気持ちで参加していた女性たちの姿を目の当たりにして、いてもたってもいられずに人気番組の仕事を迷いもなく降板し、積極的に運動に関わっていた。
だから樺美智子さんの悲劇も、安全保障条約の自然承認も、大きな挫折体験以外の何ものでもなかった。

さらには10月12日、六輔が慕っていた社会党委員長の浅沼稲次郎が、TVとラジオの中継が入った演説会の壇上で、17歳の右翼少年に刺殺されるという事件が起きた。

60年安保挫折に追い打ちを掛けるように浅沼委員長は亡くなった。
そんな辛い気分をホッとさせてくれたのが長女の誕生。
僕は父親になった。


一つの時代が終わり、次の時代の始まりとなった。
世の中は夢や理想の追求から、現実の生活における利益追求へと、転向を余儀なくさせられた。

翌年の春、人類は初めての有人宇宙飛行に成功する。
ソ連の宇宙飛行士ガガーリンは、「地球は青かった」と伝えた。

同じ頃、中村八大から夏に開催するリサイタルに向けて、永六輔は「歩く歌」を書いてほしいと依頼された。
そこでかつての自らの胸の内を託すかのように、「上を向いて歩こう、涙がこぼれないように」と言葉を連ねた。

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第4章 「希望」への歌声


「六・八コンビ」のソングライティングの常として、二人のやり取りを経て完成した「上を向いて歩こう」は、初めからエルヴィス・プレスリーに憧れて歌手になり、独特のフィーリングを持つティーン・アイドルの坂本九を歌手として想定したものだった。
時代の息吹を表現できる若さ、溢れるビート感こそがこの曲に必要だと、中村八大は確信していたのだ。

坂本九が初めて人前で歌ったのは、まだ高校2年生の頃である。
いわゆるバンド付きのボーヤとして、ドリフターズの現場で働きながらステージの最後に一回だけ、歌を歌わせてもらえたのだ。

1958年4月、立川の将校クラブで汗だくになって、エルヴィスの「ハウンド・ドッグ」を歌い終えると、拍手と一緒に観客から「エルヴィス、また来いよ!」と英語で声がかかった。
その時は嬉しくて涙が流れたという。

その翌年には最年少で『日劇ウエスタンカーニバル』に出演して、リトル・リチャードの曲を歌った。
「悲しき60才」と「ステキなタイミング」が連続してヒットし、坂本九が茶の間の人気者になったのは1960年のことだ。

過密スケジュールのただ中にあったので、「上を向いて歩こう」の譜面を見せられたのは、『第3回中村八大リサイタル』の当日になってからだった。
そしてマネジャーの曲直瀬信子からは、口伝でメロディを教えてもらった。

あの曲を貰った時はどうしようかって思った。
だってメロディに対して恐ろしく歌詞が少ない。
最初間違いかと思ったくらい……で、いろいろ考えてああいう歌い方をしたんです。
八大さんは僕ならプレスリーみたいに歌うだろうと思っていたらしいから。


リハーサルで「上を向いて歩こう」を震えながら歌った坂本九は、本番でも八大の期待に見事に応えて、若さとビート感で歌に希望の火を灯した。
半世紀の時を経て、今も続いている「上を向いて歩こう」の物語が、こうして始まったのである。

1961年8月19日、NHKの『夢であいましょう』で、「上を向いて歩こう」はテレビを通して日本全国に届けられた。
曲も詞も歌い方も、どれもが前例のない表現だった。
その夜、多くの若者が心打たれて、そこから空前の反響を巻き起こしていく。

アメリカで全米チャートの1位に輝いたのは、1963年6月15日のことだ。
奇しくもその日は、東大生の樺美智子さんの命が奪われた日にあたっていた。

もう『上を向いて歩こう』は僕だけの歌じゃない。
世界中の人の歌なんだ。
生意気なこと言うみたいだけど、『上を向いて歩こう』って世界中の人への素晴らしいメッセージだと思いませんか? 
僕はそのメッセンジャーボーイになれただけでも光栄です。


坂本九が言ったとおりに、この歌は日本だけでなく世界中に知れ渡って、21世紀にまで歌い継がれていくのだった。

(おわり)

12月10日 世界で一番有名な「ジャパニーズ・ソング」はこうして生まれた! 前編

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協力/(株)八大コーポレーション(有)アンクル・キュウ(株)マナセプロダクション

【解説】

安保反対闘争
1951年、「サンフランシスコ平和条約」とともに締結された日米安保条約の改定を巡って、1959年から60年にかけて、日本の世論を二分して闘われた政治闘争のこと。抗議行動のなか、女子大学生が犠牲になるなど事態は悪化し、普段デモなどに参加したことのない一般人や知識人、芸能人なども巻き込んで、国会が包囲されるという歴史的な事件へと発展。世界にも広く報道された。

迷いもなく降板
1960年当時、日本テレビの人気番組『光子の窓』の構成作家だった永六輔とディレクターとのやりとり。六輔は平然と答えたという。
D「デモと番組と、どっちが大切なんだよ。どっちなんだ」
永「デモですね」
D「それじゃやめてもらおう」
(参考文献/永六輔『昭和~僕の芸能私史』/光文社文庫)

六輔が慕っていた社会党委員長
浅沼稲次郎。明治生まれの社会運動家、政治家。戦後は社会党の結成に尽力し、1948年に書記長、1960年に委員長となる。果敢な政治姿勢から「人間機関車」というニックネームがつけられ、政治思想や主義に関係なく庶民の本当の気持ちがわかる人情家として、選挙区の東京下町で絶大な人気を誇った。安保闘争の指揮をとったことから、1960年10月、日比谷公会堂での演説のさなか、右翼少年の凶刃に倒れる。永六輔はラジオの仕事を通じて同氏と顔見知りの仲だった。

人類は初めての有人宇宙飛行
アメリカとソ連(現在のロシア)の冷戦下、宇宙を巡る開発競争が激化する中、1961年4月、ソ連がアメリカに先んじて成功させた人類初の有人宇宙飛行のこと。宇宙船「ボストーク」の名前はもちろん、宇宙飛行士・ガガーリンの名は、「地球は青かった」という名文句とともに世界中を駆け巡った。

立川の将校クラブ
1945年、敗戦によって接収され、米軍基地となった立川基地の中にあった米軍将校のための慰安所。バー、ビリヤード場を備え、中央にはステージがあり、バンドの生演奏をバックに酒を飲み、ダンスを楽しんだ。米軍基地を回る「キャンプ回り」は、戦後、仕事場を失った日本のミュージシャンたちにとって、最もお金を稼ぐことができる場所だった。同時に、アメリカ直輸入のジャズやポップスに触れる貴重な場ともなった。坂本九も、エルヴィス・プレスリーのものまねで人気を集めたという。1977年11月、立川基地は戦後32年を経て日本に返還され、現在は「昭和記念公園」となっている。

日劇ウエスタンカーニバル
それまで有楽町ビデオ・ホール(キャパ400)で開催されていた「ウエスタンカーニバル」を、日本劇場(立ち見を入れてキャパ4000)に場所を移して開催。第1回は1958年2月8日~14日にわたって行われ、総入場者数は40,522人を数えた。仕掛け人は、ウエスタン・バンドとして人気を博していたスイング・ウエストの堀威夫、楽譜出版シンコー・ミュージックの草野昌一、渡辺プロダクション社長・渡邊晋の妻であり、ロカビリー・シーンに理解のあった渡邊美佐。バンドの演奏と同時上映の映画から構成されるレビュー形式で上演された。坂本九は同年8月の第3回公演で最年少歌手としてステージに上がり、リトル・リチャードの「センド・ミー・サム・ラヴィン」を披露した。

曲直瀬信子(まなせのぶこ/現・桑島信)
マナセプロを経営する曲直瀬家の四女、渡辺プロダクション会長・渡邊美佐の妹。日本のロカビリー・シーンにいち早く目をつけ、先見性あるマネジメントで山下敬二郎や水原弘をスカウトし、大ブレイクさせる。坂本九がまだソロになる以前から、「テレビが家庭に入っていくこれからは、坂本九のような庶民的な子がスターになる!」と直感したという。

夢であいましょう
1961年4月8日~1966年4月2日、NHKで毎週土曜夜10時台に生放送されていたバラエティ番組。作・構成は永六輔、音楽は中村八大、演出は末盛憲彦。ホステスは中嶋弘子、レギュラーに黒柳徹子、渥美清、E・H・エリックなど。毎週テーマを決めて、コントや音楽で綴るスタジオ収録バラエティだった。毎月「今月の歌」として、永六輔作詞、中村八大作曲のオリジナル曲が披露された。坂本九「上を向いて歩こう」、ジェリー藤尾「遠くへ行きたい」、梓みちよ「こんにちは赤ちゃん」など、同番組から生まれたヒット曲は多い。

【登場人物】

sukiyaki_sm_001中村八大(なかむら・はちだい)
1931年、中国・青島生まれの音楽家。早稲田大学在学中に、ジョージ川口、松本英彦、小野満とビッグ・フォーを結成し、ジャズ・シーンを代表するピアニストとして人気を博す。その後もシックス・レモンズ、中村八大モダン・トリオ、中村八大クインテットなどを率いて演奏するかたわら、作曲家としても活躍。水原弘の「黒い花びら」のヒットを皮切りに、坂本九「上を向いて歩こう」「明日があるさ」、ジェリー藤尾「遠くへ行きたい」、梓みちよ「こんにちは赤ちゃん」など、今でも歌い継がれる多くのスタンダード・ナンバーを生み出した。テレビ番組『夢であいましょう』や『ステージ101』などでは音楽監督を務め、クラシック作品の作曲も手がけるなど多才な活動を行う。80年代以降は糖尿病のため闘病生活を送りながら音楽活動を続けたが、1992年に心不全のため61歳で死去。

sukiyaki_sm_002永六輔(えい・ろくすけ)
1933年、東京都生まれの作詞家・放送作家・タレント。本名は永孝雄。学生時代にラジオ番組へ投稿していたことをきっかけに、CMソングの元祖として知られる三木鶏郎に認められ、放送作家としての活動を始める。主にテレビやラジオの企画や構成を担当していたが、作曲家の中村八大の薦めにより作詞家としての活動もスタート。坂本九が歌って海外でも大ヒットした「上を向いて歩こう」を筆頭に、水原弘「黒い花びら」、坂本九「見上げてごらん夜の星を」、デューク・エイセス「いい湯だな」など、昭和歌謡史に残る名曲を多数生み出した。また、エッセイストとしても独特の筆致で評価が高く、1994年に発表した『大往生』は200万部を超えるベストセラーとなり、テレビドラマにもなった。ラジオ・パーソナリティーとして番組出演する際の辛口のコメントや、江戸の文化や風俗にスポットを当てるなど筋の通った発言が、多くの文化人や芸能人に多大な影響を与え続けている。

sukiyaki_sm_003坂本九(さかもと・きゅう)
1941年、神奈川県生まれの歌手・俳優。本名は大島九(ひさし)。エルヴィス・プレスリーに憧れて音楽の道に進み、ザ・ドリフターズやダニー飯田とパラダイス・キングを経て、1958年に歌手デビュー。1960年に発表した「悲しき六十才」で一躍スターとなる。翌年発表の「上を向いて歩こう」が、NHKのテレビ番組『夢であいましょう』の“今月の歌”に選ばれ大ヒット。海外でもリリースされ、アメリカのビルボード誌では3週連続1位を獲得、年間チャートでも第4位を記録した。その後も、「見上げてごらん夜の星を」、「明日があるさ」、「幸せなら手をたたこう」と、立て続けに話題作を連発。日本のポップス・シーンの中心的存在となる。1971年に女優の柏木由紀子と結婚。歌手活動と並行して、俳優やタレント、テレビ番組の司会者などとしても活躍し、その明るい笑顔とキャラクターで人気を得る。1985年、日本航空123便墜落事故により43歳で死去。

坂本九『上を向いて歩こう』 東芝レコードから発売された初版シングル盤。1961年10月15日リリース。
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坂本九『上を向いて歩こう』
これまで8センチ盤でしかリリースされていなかった「上を向いて歩こう」のシングルCDが、12センチ盤5曲入りマキシ・シングルとして新しいジャケットで登場。カップリングには「見上げてごらん夜の星を」「ともだち」「一人ぼっちの二人」、そして「上を向いて歩こう」のカラオケを収録。カセットテープ(¥1,200)も同時発売。
上を向いて歩こう』佐藤剛
『上を向いて歩こう』佐藤剛(岩波書店)
「上を向いて歩こう」は戦後復興のなか、どのように生まれ育まれ、世界の「SUKIYAKI」になったのか。中村八大、永六輔、坂本九の物語、その他多くの関係者への取材とともに、昭和という時代の息づかいを追いながら、音楽プロデューサー・佐藤剛が書き下ろすヒューマン・ドキュメント。2011年3月11日以降、この歌は、再び、多くの人に口ずさまれている。そんな永遠のスタンダードナンバーの軌跡を綴った決定版!
『上を向いて歩こう: 奇跡の歌をめぐるノンフィクション』佐藤剛(小学館文庫)
2011年に出版された『上を向いて歩こう』の文庫版。

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