1966年のビートルズ来日を最後に、日本では大物ロックバンドのコンサートが催されることがしばらくなかった。
しかし、1971年にレッド・ツェッペリン、ピンク・フロイド、グランド・ファンク・レイルロードと、ダムが決壊したかのように立て続けにビッグ・アーティストによる来日公演が実現する。
そして1972年になると、ディープ・パープルの来日公演が発表された。
1970年にハードロックへと路線変更したディープ・パープルは、イギリス国内で人気を伸ばし、日本でも「ブラック・ナイト」が大ヒットしたことで注目を集めていた。
日本ツアーは当初5月の予定だったが、ハードスケジュールによる疲労から、中心的存在のギタリストのリッチー・ブラックモアが肝臓炎に、ボーカルのイアン・ギランが気管支炎となってしまって8月に延期される。
コンサートは大阪フェスティバル・ホール(15、16日)、日本武道館(17日)の計3回だった。当時はロック・コンサートであろうとも立ち上がらず、おとなしく椅子に座って見るのがルールとなっていた。
だが、その一方ではアンコールになったら席を離れて通路から前列に詰めかけていいという、いつからか定着した不思議な暗黙のルールがあった。
「ハイウェイ・スター」で幕を開けると観客は座りながらも熱狂し、バンドは畳み掛けるように「スモーク・オン・ザ・ウォーター」「チャイルド・イン・タイム」と演奏していった。
アンコールの「ブラック・ナイト」と「スピード・キング」(大阪2日目は「ルシール」)では、大勢がステージ前に詰めかけて狂乱ともいえる盛り上がりをみせた。
その一部始終が日本のワーナー・パイオニア社の希望によって、ライブ・レコーディングされた。記念すべきこの初来日公演を、ライヴ・アルバムとしてリリースしたいと考えていたからだ。
しかしディープ・パープル側は当初、その案に対して首を縦に振らなかった。自分たちの音楽をライブで完璧に再現することは、とても不可能だと考えていたからである。交渉の末、下記のようないくつかの厳しい条件と引き換えに、録音の許可が降りた。
・リリースは日本のみ
・演奏、録音の状態が悪ければ発売しない
・録音はバンド側のスタッフが行なう
・マスター・テープはバンド側が回収する
・ミックス作業はバンド側が行なう
ライブレコーディングの手配は日本のレコード会社が行ったが、来日したバンドとスタッフたちは名も知らない日本製の録音機材を見て落胆した。彼らが使っていたものより小さくて、機能もずっと少なかったので、商品になるような音質で録ることはできないだろうと感じたのだ。
メンバーはレコーディングのことは忘れて、いいステージにすることだけに集中しようと決めた。キーボードのジョン・ロードはレコーディングをあまり意識しなかったことが、結果的にいいパフォーマンスにつながったのだろうという旨の発言を残している。
後日、録音されたマスター・テープを聴いたイギリスのエンジニアは、日本の録音機材の高性能さに驚いたという。日本での発売にも無事に許可がおりて、その年の12月に日本限定のアルバム『ライヴ・イン・ジャパン』はリリースされた。
コンサートの成功だけでなく、それを伝えるアルバムがヒットしたことによって、日本におけるディープ・パープルの人気は不動のものとなった。
そして日本限定だったはずのアルバムは、その内容の良さから『メイド・イン・ジャパン』というタイトルになって、他の国でもリリースされて世界中でプラチナ・ディスクを獲得する大ヒットとなった。

『Made in Japan』
2012年にローリング・ストーン誌が行なった読者投票による、オールタイム・ライヴ・アルバムでも第6位にランクされるほど評価が高い。
“メイド・イン・ジャパン”の小さな録音機材でレコーディングされた日本でのライブは、今でも世界中で多くのロック・ファンに愛されているのである。
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(メンバーたっての希望で実現したレッド・ツェッペリンの広島公演)
(初来日したピンク・フロイドが濃霧に包まれた箱根で演奏した「原子心母」)
(激しい雷雨で伝説となった後楽園球場のグランド・ファンク・レイルロード来日公演)