1960年代から70年代にかけて、洋楽のヒット曲を作り出すのに貢献していたのはラジオだった。ただし、歌や音楽はラジオからそのままリスナー伝わるが、アーティストの魅力そのものが伝わるわけではない。
フランソワーズ・アルディは、18歳の時に自分で作詞作曲した「男の子と女の子」でデビューし、歌手のみならずモデルや女優としても活躍した。
フランソワーズ・サガンの原作による映画『スウェーデンの城』(1962年)と、アメリカ映画『グラン・プリ』(1965年)に出演したこともあり、映画ファンの間にはそれなりの知名度があった。
しかし日本ではレコードがヒットせずに終わり、一般的には今ひとつ知られないままだった。
1973年にアルディの「Comment te dire adieu(原題:さよならを言う方法)」をシングル盤でリリースするとき、売出すための作戦を考えたのはCBSソニーの洋楽マン、ディレクターの高久光雄である。
ミッシェル・ポルナレフの「シェリーに口づけ」を1971年にヒットさせて、第2次フレンチ・ポップス・ブームを仕掛けた高久は、アルディなら日本でも絶対に成功すると思っていた。
この曲がフランスでヒットしたのはすでに5年も前のことだったが、高久は成功させるために二つの策に絞り込んで、プロモーションを展開していった。
アーティストをラジオだけでは伝えられない。方法は二つ。一つは日本で売れそうなタイトル。「さようならを教えて」にした。好きなんだけど別れる、でもどうやって別れていいかわからないから教えてっていう、すごい矛盾。これを演出した。もう一つは雑誌メディア。『平凡パンチ』から『アンアン』に移った今野雄二さんにたくさん写真を持ってって。「これ独占で全部渡すからページ組んでよ」。そしたら巻頭近くに4ページ・カラーを組んでくれた。その「アンアン」を全国の営業所に送ってまた売り込みに行くわけ。狙ったのは女性です。「わっ、すてきな女の人、こういう人になりたい」という女性の支持。
そして高久の思惑通りに「さようならを教えて」は若い女性から支持されてヒットし、そこから松任谷由実(ユーミン)による「私のフランソワーズ」が誕生する。
ユーミンが初めてフレンチ・ポップスに興味を持ったのは中学2年ぐらいの頃で、よく遊びに行った横浜の雑貨屋にジャケットのないレコードがあり、その中に入っていたパイプ・オルガンを効果的に使ったサウンドが気に入ったからだ。
そのアーティストがミッシェル・ポルナレフ、曲は「LE BAL DES LAZE(ラーズ家の舞踏会)」だった。
その頃まではグループ・サウンズを追いかけていたユーミンだったので、シャンソンなどという音楽は馬鹿にしていたらしいが、それを聴いてなかなかいいものだと思い直したという。
それからは映画音楽を通してミシェル・ルグランの良さを知り、「男と女」のピエール・バルーやセルジュ・ゲンズブールなどを聴き始めた。
そうやってカッコいいと思うことを積極的に追いかけて吸収している時に、まさにフランスの香りだったというのが、フランソワーズ・アルディのレコードだったのだ。
ちなみに「さよならを教えて」はオリジナルは英語だったが、セルジュ・ゲンズブールが洒落たフランス語の歌詞をつけたヴァージョンが、世界的には有名になった。
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<参考図書>
高久光雄氏の発言は、篠崎 弘(著、監修)「洋楽マン列伝 1 」(ミュージック・マガジン) からの引用です。