かつて自動車産業で賑わったアメリカの工業都市、デトロイト。モータウン・レコードを筆頭に、様々な音楽を世界に発信してきたこの街で、絶大な支持を得たミュージシャンがボブ・シーガーだ。
1945年5月6日にデトロイトの病院で生まれたボブ(本名、ロバート・クラーク・シーガー)は、高校時代にバンドを組むとその後いくつかのバンドを転々とし、20歳の時にラスト・ハードというバンドを結成する。
彼らのデビュー・シングル「イースト・サイド・ストーリー」は、荒々しいロックでデトロイトを中心に支持を集め、新人ながら5万枚のヒットを記録した。
その後も「ヘヴィ・ミュージック」などヒット曲を出し続け、デトロイトでは押しも押されもせぬ人気ロックバンドとなったボブとラスト・ハードだが、レーベルからのお金はまだ入ってきていなかった。
そこでニューヨークの事務所まで足を運ぶと、驚くことにもぬけの殻となっていた。ボブの知らないところで、レーベルはすでに倒産していたのである。
ショックを受けたボブはしばらく活動を停止するも、68年には大手のキャピトル・レコードと契約を交わし、バンド名をボブ・シーガー・システムに改めて再スタートを切る。
そして2枚目のシングル「ランブリン・ギャンブリン・マン」がデトロイトで大ヒットし、全米チャートでも17位まで浮上した。
しかし、そこがピークだった。その後はシングルもアルバムも売り上げが伸びず、1970年にはソロに転向してイメージチェンジを図るが、それも失敗に終ってしまう。デトロイトでは高い人気を誇っていたボブだが、全国という高い壁には為す術もなく打ちのめされるだけだった。
そんなボブに転機が訪れたのは1976年のこと。その年の4月にリリースしたボブ・シーガー初の2枚組ライヴ・アルバム『ライヴ・バレット』が全国的に大ヒットし、ゴールド・ディスクを獲得したのだ。
しかし、ボブはライヴ・アルバムを出すことに対して、当初は乗り気でなかったという。
「僕はライヴ・アルバムに本気で反対していたんだ。でも新しいレコードがまだ完成してなくてね」
前作の『美しき旅立ち』をリリースしてから1年近くが過ぎようというのに、新作が完成する目処はまだ立っていなかった。あまりアルバムリリースの間隔を空けるのは良くないだろうと判断し、ボブは仕方なくリリースに同意した。
ところで前年の1975年には、当時まだ売れないバンドだったキッスがライヴ・アルバム『地獄の狂獣 キッス・ライヴ』(ALIVE!)を大ヒットさせ、一躍人気バンドの仲間入りを果たしている。
ALIVE!
彼らは全国的にはまだまだ無名だったが、デトロイトではラジオから火が点いて人気を集めていた。アルバムはデトロイトのコボ・ホールで録音されたもので、熱狂的なオーディエンスがバンドとレコードに力を与えているのが伝わってくる。
それならばボブ・シーガーがデトロイトでやったライヴも同様にヒットするはずだ、というのがボブの所属するキャピトル・レコードの狙いだったのだろう。
『ライヴ・バレット』に収められているのは2年前となる1974年9月のコンサートで、場所はキッスと同じくデトロイトのコボ・ホールだ。
この年、新たにボブ・シーガー&シルバー・バレット・バンドを結成したボブは精力的にライヴを行い、バンドの完成度はすでに十分すぎるほどのレベルに達していた。
それに加えてデトロイトはホームグラウンドであり、オーディエンスのことも完全に熟知していた。コンサートの冒頭を飾るアイク&ティナ・ターナーのカバー「ナットブッシュ・シティ・リミッツ」の曲中で、ボブは観客に向けてこうメッセージを放つ。
ローリング・ストーン誌を読んでたらこんなことが書いてあったんだ「デトロイトの観客は世界でもっとも偉大なロックの観客だ」ってね。それで思ったのさ。畜生が!そんなこと10年前から知ってるぜ!
バンドと観客が一心同体となって生み出す圧倒的な熱量は、ライヴ・アルバムの名盤と呼ぶにふさわしく、それまでのスタジオアルバムでは聴けなかったボブ・シーガーの魅力が凝縮した内容となっている。
『ライヴ・バレット』で勢いづいた彼らは、秋に9枚目のスタジオアルバム『ナイト・ムーヴ』をリリースして大ヒットさせ、全国的な人気を確実なものにした。そして80年代にはブルース・スプリングスティーンらと並んで、アメリカのロック・シーンを牽引していったのである。
当時はライヴ・アルバムを出すことに反対していたボブだが、2011年にはラジオ番組で「『ライヴ・バレット』を誇りにしている」と話している。
「長旅の最中に時折これを聴くのが楽しみなんだよ。そこには君が言うように6人の男が生み出す白熱したエネルギーがあるからね」
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