カントリーミュージック。それは、アメリカ合衆国南部で発祥した音楽である。「アパラチアンミュージック」、「マウンテンミュージック」、「ヒルビリー」、「カントリー&ウエスタン」などと呼ばれた時期を経て、現在の名称となった。ヨーロッパの伝統的な民謡やケルト音楽が、ゴスペルなど、霊歌・賛美歌の影響を受けて1930年代に誕生したものと云われている。
ロレッタ・リンはそんなアメリカの音楽=カントリーの代表的な女性歌手の一人だ。1935年にケンタッキー州の小さな炭鉱町ブッチャーホラーで、炭坑夫の娘として生まれた。
8人兄弟の2番目(次女)という大家族の中、貧しい環境で育つ。母方からは、スコットランド人、アイルランド人、そしてチェロキーの血を引いているという(※現在ブッチャーホラーにあった生家は、ケンタッキーの観光名所となっている)。
1949年、わずか13歳にして結婚。18歳にして、すでに4人の子供の母となっていた。幼い頃のロレッタは、教会や地域のコンサートで歌う音楽好きな女の子だった。結婚後は苦難の生活の中、その情熱は家族に向けられるように。
そんな中、5回目の結婚記念日に夫から安物の古いギターをプレゼントされる。独学でギターを練習しながら二十代から歌い始め、やがて歌手になる夢を抱くようになる。夫と二人三脚で地道な売り込み活動や、ローカルクラブへの出演を続けていると、次第に認められるようになっていく。
そんなある日、ロレッタはテレビのコンテストに出演した。その放送を見たレコード会社(Zero Records) の社長の目に留まって、ハリウッドでのレコーディングのチャンスを得る。
25歳を目前にした1960年3月に、その音源が1stシングルとしてリリースされる。その2年後、大手レコード会社のデッカとの契約を手にし、60年代前半にはスター歌手の仲間入りを果たす。
60年代後半になると、それまでカントリーの世界で聴かれることのなかった“女性ならではの視点”から歌詞を書くようになる。70年代には、コンウェイ・トゥイッティとコンビを組んで幾多のヒットを放つ。
そして1980年、アパラチア山脈出身の極貧の生い立ちからスター歌手になるまでの波乱に満ちた半生を描いた自伝的映画『歌え!ロレッタ愛のために』(原題/Coal Miner’s Daughter)が公開された。
本作は、第53回アカデミー賞で作品賞を含む7部門にノミネートされ、シシー・スペイセクが主演女優賞を受賞した。映画『キャリー』(1976年)の名演に続いて、本作でロレッタ・リンを演じ、吹き替えなしに歌った女優シシー・スペイセクの才能が、本作で更に認められたのだ。ロレッタ・リンとシシー・スペイセクは、役作り期間から丁寧に親密な時間を重ね、後は一緒にコンサートをするほど、私生活でも深い親交がある。
また、この映画には夫オリヴァー・ヴァネッタ・リン役でトミー・リー・ジョーンズ(サントリー缶コーヒーBOSSのCM・宇宙人役でおなじみの名優)が共演し、浮気はするものの、ロレッタ・リンと彼女の歌を愛する最高の理解者を演じている。
父親テッド・ウェブ役で、ザ・バンドのレヴォン・ヘルムが出演し、口数は少ないが、実直な父親を味わい深く演じている。この演技が認められ、この後、レヴォン・ヘルムは多くの映画に出演して俳優としても活躍することとなる。
映画『歌え!ロレッタ愛のために』英語版予告編
この映画には、こんな誕生エピソードがある───。
ある時、ロレッタが自宅のプールで泳いでいると、ユニバーサルピクチャーズの男たちがやって来て、「あなたの自伝を映画化するとしたら、誰を主役にしたいですか?」と言い、分厚い写真ファイルを手渡した。
ロレッタが写真をめくっていくと、そこにはブロンドでソバカスのある女優が微笑んでいた。自分にもソバカスがあったので、その女優の写真を抜き出して別にしておいた。ユニバーサルの男たちがまた戻って来て写真を見て、「この娘ってことですか?」と尋ねた。彼女は
本人からの抜擢によって役を引き受けることとなったシシー・スペイセクは、その後約一年間に渡ってロレッタと多くの時間を共有しながら“役作り”に取り組んだ。夜はランプシェードに楽譜を洗濯バサミで止め、ロレッタがギターを弾いて歌った。シシーも見よう見まねでギターを手にし、ロレッタの声に似せるようにして歌った。
そんな日々を過ごす中で、ロレッタはカントリーミュージックの公開ライブ放送のラジオ番組「グランド・オール・オプリ」に、シシーを連れて3度も出演した。そこで歌詞の一部をシシーに歌わせてみたところ、ラジオのスピーカーから聴こえた二人の歌声はほぼそっくりだったという。
「シシーは歌い方や喋り方を真似るのが上手で、私自身になり切ろうと一生懸命だった」とロレッタは語っている。そして、こんな印象的なエピソードもあったという。
ある日、ロレッタの双子の娘がこう言った。「マミィ、シシー・スペイセクみたいに喋るのはやめてよ」と。映画完成後にロレッタは、こう語っている。
「自分を演じるシシーがステージで倒れるシーンが辛くて直視出来なくて、思わず画面から目をそらし、そのシーンが終ってからまた見続けたの」
また、ロレッタの夫は最初トミー・リー・ジョーンズに嫉妬し、協力的ではなかったという。しかし、ユニバーサルピクチャーズが「ブルドーザーの運転をトミーに教えてやってくれ」と夫にお願いすると、それをきっかけに二人の距離は縮まり、手の平を返したように夫はすっかりトミーのファンになってしまったのだ。
ロレッタの熱烈なファン達は口をそろえて「この映画を70回観た」とか「100回観た」と言うらしい。あるインタビューで彼女は「それは嘘ではない。この映画は一時的なものではなく、3世代にわたって好まれている」と証言している。
映画の公開から8年後、1988年、ロレッタはカントリーの殿堂(Country Music Hall of Fame)入りを果たした。
「Coal Miner’s Daughter(炭坑夫の娘)」/ロレッタ・リン


執筆者・佐々木モトアキ プロフィール
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