1947年3月25日、彼はロンドン郊外ミドルセックス州にあるピナーという町で生まれた。
出生時の名前は、レジナルド・ケネス・ドワイト。
父親はイギリス空軍RAFの大尉だったため家を空けることが多く、彼は幼い頃から母親や他の親類によって育てられたという。
ピナー・ヒル・ロード55番地にあった質素な公営住宅で、彼は幼少期を過ごす。
「幼い頃、ラジオから流れるナット・キング・コールやディーン・マーチン、それにガイ・ミッチェル、ローズマリー・クルーニーなどの曲を自然と耳にしていたんだ。」
彼は4歳の頃からピアノを弾き始める。
耳で聴いたメロディーをすぐに再現して演奏することができた彼は、周りから“神童”と呼ばれていた。
ピアノ教師によると1度聴いただけのヘンデルの楽曲を完璧に弾くことができたという。
ある時期から父親が家に戻るようになり、彼の世界は一変したという。
「父は私生活にまで軍隊式のしきたりを持ち込み、家庭を兵舎に見立てて徹底的に管理し始めたんだ。独裁者の父は僕に好きなことを決してさせてくれなかった。バラの花壇が荒れるのを心配して、庭でボール蹴りをして遊ぶことさえ禁じられたんだ。」
彼と母親は、そんな独裁者が仕事から帰宅するのをビクビクして過ごすようになる。
常に父親を恐れ、ある意味憎むこともあったという。
ところが…皮肉なことに、彼の音楽的才能は、空軍のバンドでトランペット奏者をしていた父親ゆずりのものだった。
音楽に興味を持ち始めた息子に、父親はフランク・シナトラのアルバム『Songs for Swingin’ Lovers!』の楽譜をプレゼントすることもあった。
1958年、11歳になった彼は地元のグラマースクールに入学し、さらに奨学金を受けてロンドンにある名門の音楽家養成学校(王立音楽院)でピアノを学ぶようになる。
養成学校には、将来職業としての音楽に専念するために6年間在学したという。
ピアニストとして、それまでバッハやショパンの演奏を得意としてきた彼だったが…この頃から、エルヴィス・プレスリーやビル・ヘイリー、リトル・リチャードやジェリー・リー・ルイスの曲を活き活きと演奏するようになり、彼は次第にクラスの人気者になってゆく。
音楽理論の基礎を教え込む養成学校は、彼の音楽キャリアにおいて重要なものとなった。
後年“エルトン・ジョン”の名前でアーティスト活動をするようになってからも、彼は曲想や楽句(フレーズ)において“産みの苦しみ”を経験することはほぼなかった。
この時期に学んだ専門的な知識と技術、そして天賦の才能が混じり合い、彼は凄まじいスピードで作曲をすることができた。
彼は音楽院時代を振り返り、こんな発言を残している。
「正式な音楽教育には退屈することが多く、授業がやけに長く感じられたものだ。今思えば、あの頃に和音の構成や音階について学んだことが、現在の自分の地位を築く上でかなり役立ったように思うよ。」
彼が15歳を迎えた1962年、両親は離婚を決意する。
彼にとっては、とても辛い時期だった。
両親の離婚は悲しい出来事だったけれど、彼にとっては独裁者だった父の存在に怯えていた頃よりも家庭でリラックスできるようになったのも事実だった。
やがて彼は(まだ15歳にもかかわらず)学校に通いながら、週末の夜だけホテルのラウンジでピアニストとして演奏をし始める。
ツイードのジャケットに伊達眼鏡をかけてピアノを弾いた。
それは当時彼が英雄のように崇めていたバディ・ホリーへのリスペクトだったという。
視力的には眼鏡など必要なかったが、彼はその頃から眼鏡をかけるようになり、いつしかそれはトレードマークになっていった…
<引用元・参考文献『伝記 世界の作曲家(14)エルトンジョン』ジョン・オマホニー(著),橘高弓枝(翻訳)/偕成社>