「ねぇ、マジソン・スクエア・ガーデンで演ろうよ」
突然、ボブはそう言った。
「怖いわ」
ジョーンは少し考えた後、そう答えた。
「それって」と、彼女は言葉を続けた。
「あなたがロックンロールの王様になって、私が平和の女王になるということ?」
「くだらない」
ジョーンの言葉を聞いて、ボブは悪態をついた。
その夜も、会場にやってきた若者たちが聴きたがっていたのは、ボブの「戦争の親玉」や「神の加護で」だった。
「あの人たちの頼みは聞いてやったじゃないか」と、ボブは言った。ファンが望むように、アコースティックのセットで旧い歌を、彼らがいうところのプロテスト・ソングを歌ったではないか、ということだった。
「ボビー、あなたは卑怯だわ」とジョーンは言った。「あの人たちをみんな私に預けようっていうの?」「欲しけりゃくれてやるさ」とボブはジョーンを見ずに言った。そしてその日からしばらく、ふたりが揃ってステージに立つことはなくなった。
それから少しして、ジョーンはボブ・ディランのコンサート会場に姿を見せる。そしてその晩初めて、彼は「ジョアンナのヴィジョン」を演奏したのだ。
♪そしてジョアンナのヴィジョンが
僕の心を征服するのだ♪
曲の途中で、ジョーンのもとにアレン・ギンズバーグが現れた。「この曲について、君はどう思う?」と、彼はジョーンに聞いた。会場が暗くてよくわからなかったが、ジョーンには、彼が薄ら笑いをしているような気がした。ギンズバーグにはいい思い出がないのだ。
ジョーンは、初めてギンズバーグに会った日のことをよく覚えていた。それはどこかのパーティで、ボブと一緒に演奏するために出かけていた。ボブはかなり酔っていて、演奏が終わると、ジョーンのことなどお構いなしに、赤毛の女の子に取り入ろうとしていた。
そんな時だった。ギンズバーグはジョーンに自己紹介すると「私もボブ・ディランとファックしたいね」と、大声で言ったのだ。「あ、そう」と、ジョーンは答えた。「なら今、ここでなさればいいじゃない」ジョーンはそう言うと、前後不覚になったディランを連れて、パーティ会場を後にするのだった。
「ジョアンナのヴィジョン」にはふたりの女性が登場する。俗世界を見下ろすようなジョアンナと、その俗世界(ここではニューヨーク)で歌の主人公と暮らすルイーズである。
♪この部屋では暖房用のパイプが
咳をしている♪
「ジョアンナのヴィジョン」を書いた時、ディランはサラ・ラウンズとチェルシー・ホテルで暮らしていた。そして部屋にあった古い暖房パイプはよく、咳をするような音を立てていた。
ジョアンナとルイーズ。
JとL。
Jはジョーンの、Lはラウンズの頭文字だ。
ジョーン・バエズは、ボブ・ディランの英国ツアーに同行することを決めた。自らのコンサート予定をキャンセルしてまでの決断だった。そしてそのツアーがふたりの関係にとどめをさすことになったのである。
(このコラムは2015年12月17日に公開されたものです)

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