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ようやく私自身の曲を書く時がきたのよ~ビョークの27歳

2024.11.21

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ビョークが1stアルバム『デビュー』をリリースしたのは、1993年7月のことだ。このときすでに27歳になっていたのは、それまでの彼女の音楽がバンドとともにあったからだった。

学生時代にいくつかのバンドを組んだのち、シュガーキューブスを結成したのは20歳のときだ。それはバンドのギターで、当時の夫でもあったソール・エルドンとの間に第一子が生まれた日でもあった。

ビョークによれば、バンドのコンセプトは「パンクと文学がいっしょになって、その上にシュールレアリズムを振りかけた感じ」だったという。

結成から2年後の1988年にリリースされた1stアルバム『ライフ・イズ・トゥ・グッド』は、イギリスとアメリカで合わせて50万枚を超えるヒットとなった。


ところが続く2ndアルバムは、1stほどのヒットには至らず、シュガーキューブスは3枚のアルバムを残して、1992年12月に解散してしまう。

その理由はいくつかあるが、敬意を払うがあまり、互いに意見を主張するのを控えるようになり、創作活動がしづらくなってきたというのが、ビョークにとっては大きな理由だった。

一方で、彼女はジャズ・ミュージシャンとアルバムを制作したり、ハウス系のユニット、808ステイトのアルバムに参加したりなど、幅広いジャンルで活動していた。1人で音楽を作るよりも、誰かと作るほうが刺激的で楽しかったのだという。

「だけど、いつも他人のヴィジョンの中で取り組まなければならなかったの。それが、ようやく私自身の曲を書く時がきたのよ」


ソロで活動することを決めたビョークは心機一転、母国アイスランドからロンドンへと移住する。新天地で、彼女は大好きなダンス・ミュージックを聴くため、クラブ通いの日々を過ごした。

アシッド・ハウスやテクノ、ドラムンベースといった最先端のサウンドは、ビョークにとって大きな刺激となった。そんな日々の中で出会ったのが、ビョークのプロデューサーとなるネリー・フーパーだ。

「私にはプロデューサーをみつけるつもりなんてなかったの。なるようになると思ったわ。だけどネリーと一緒にクラブに出かけるようになり、6ヶ月後にはお互いにいつも電話をかけあって、閃いたアイデアを話し合っていたの。それが、すべての始まりだったのよ」


プロデューサーも見つかり、いよいよ自分自身のアルバムを作る段階へと入ったビョークは、“大事なオモチャを3つに絞る”という、引き算の発想でアプローチする。彼女が選んだ3つのオモチャとは、「声」「ストリングス」「ビート」だった。

「声は酸素を祝福する。これは体の中の大事なネットワークね。それから神経に相当するストリングス。最後のビートはパルスよ、血液と心臓」


エレクトリックなビートが心臓に呼びかけ、ストリングスが心を震わせ、声と言葉によって彼女のパーソナルな世界が描かれていく。それがソロ・アーティスト、ビョークの音楽だった。


1stアルバム『デビュー』は、全英チャートで初登場3位につけるという好調なスタートを切ると、そのままセールスを伸ばし続けてプラチナ・ディスクを獲得し、アメリカでもゴールド・ディスクを獲得。わずか3ヶ月で60万枚を超える大ヒットとなった。

翌年のブリット・アワードでは、最優秀インターナショナル女性ソロアーティスト賞と最優秀インターナショナル・ブレイクスルー賞(新人賞)の2部門を受賞する。

ビョークが27歳にして踏み切った新たなスタートは、世界中から熱烈な歓迎を受け、彼女の人気はデビューまもなくして不動のものとなるのだった。


引用元:ビョークが行く』エヴェリン・マクドネル/著 栩木玲子/訳(新潮社)、『ビョークの世界』イアン・ギティンス/著 中山 啓子/訳(河出書房新社)


Bjork『Debut』
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