ビョークが1stアルバム『デビュー』をリリースしたのは1993年7月のことだ。
このときすでに27歳、デビューが遅かったのはそれまでの彼女の音楽がバンドとともにあったからだった。
学生時代にいくつかのバンドを組んだのち、シュガーキューブスを結成したのは20歳のときだ。それはバンドのギターで、当時の夫でもあったソール・エルドンとの間に第一子が生まれた日でもあった。
ビョークによればバンドのコンセプトは「パンクと文学がいっしょになって、その上にシュールレアリズムを振りかけた感じ」だったという。
結成から2年後の1988年にリリースされた1stアルバム、『ライフ・イズ・トゥ・グッド』はイギリスとアメリカで合わせて50万枚を超えるヒットとなった。
ところが続く2ndアルバムは1stほどのヒットには至らず、シュガーキューブスは3枚のアルバムを残して92年の12月に解散してしまう。
その理由はいくつかあるが、敬意を払うがあまり互いに意見を主張するのを控えるようになり、創作活動がしづらくなってきたというのがビョークにとっては大きな理由だった。
一方で彼女はジャズ・ミュージシャンとアルバムを制作したり、ハウス系のユニット、808ステイトのアルバムに参加したりなど、幅広いジャンルで活動していた。
1人で音楽を作るよりも誰かと作るほうが刺激的で楽しかったのだという。
「だけど、いつも他人のヴィジョンの中で取り組まなければならなかったの。
それが、ようやく私自身の曲を書く時がきたのよ」
ソロで活動することを決めたビョークは心機一転、母国アイスランドからロンドンへと移住する。
新天地で彼女は大好きなダンス・ミュージックを聴くため、クラブ通いの日々を過ごした。
アシッド・ハウスやテクノ、ドラムンベースといった最先端のサウンドは、ビョークにとって大きな刺激となった。
そんな日々の中で出会ったのが、ビョークのプロデューサーとなるネリー・フーパーだ。
「私にはプロデューサーをみつけるつもりなんてなかったの。なるようになると思ったわ。
だけどネリーと一緒にクラブに出かけるようになり、6ヶ月後にはお互いにいつも電話をかけあって、閃いたアイデアを話し合っていたの。
それが、すべての始まりだったのよ」
プロデューサーも見つかり、いよいよ自分自身のアルバムを作る段階へと入ったビョークは、“大事なオモチャを3つに絞る”という引き算の発想でアプローチする。
彼女が選んだ3つのオモチャとはすなわち声、ストリングス、そしてビートだった。
「声は酸素を祝福する。これは体の中の大事なネットワークね。
それから神経に相当するストリングス。
最後のビートはパルスよ、血液と心臓」
エレクトリックなビートが心臓に呼びかけ、ストリングスが心を震わせ、声と言葉によって彼女のパーソナルな世界が描かれていく。
それがソロ・アーティスト、ビョークの音楽だった。
1stアルバム『デビュー』は全英チャートで初登場3位につけるという好調なスタートを切ると、そのままセールスを伸ばし続けてプラチナ・ディスクを獲得し、アメリカでもゴールド・ディスクを獲得、わずか3ヶ月で60万枚を超える大ヒットとなった。
翌年のブリット・アワードでは最優秀インターナショナル女性ソロアーティスト賞と最優秀インターナショナル・ブレイクスルー賞(新人賞)の2部門を受賞する。
ビョークが27歳にして踏み切った新たなスタートは世界中から熱烈な歓迎を受け、彼女の人気はデビューまもなくして不動のものとなるのだった。
引用元:
『ビョークが行く』エヴェリン・マクドネル/著 栩木玲子/訳(新潮社)
『ビョークの世界』イアン・ギティンス/著 中山 啓子/訳(河出書房新社)