「さあ、終わったぞ。僕はもうビートルじゃないんだ!」
ジョージ・ハリスンがそう口にしたのは1966年の8月、サンフランシスコでビートルズ最後のコンサートを終えた帰りのことだった。
ところが、実際にはそれからスタジオワークを中心に、ビートルズの活動は4年近く続くことになる。そんな中で、ジョージはソングライターとしての頭角を徐々に現し始め、1969年には「サムシング」「ヒア・カムズ・ザ・サン」など、ポールとジョンの作品に肩を並べる素晴らしい作品を生み出した。
ポールとジョンがメインと考えていたビートルズのプロデューサー、ジョージ・マーティンも、開花したジョージの才能を高く評価した。
「来年の彼は、ミュージシャンとしても作曲家としても、すばらしい飛躍を見せるだろう。彼には気力も想像力もあるし、ジョンやポールに劣らぬ偉大な作曲家であることを示す能力もある」
ビートルズが事実上の解散に至ったのは1970年4月、ポール・マッカートニーが脱退を表明したのが引き金となった。そのことについてジョージは、「僕たちは数年前にこうするべきだった」という辛辣な言葉を残している。
このときジョージ・ハリソン27歳、10年間に及ぶビートルズのメンバーとしての日々に別れを告げ、新たなスタートを切った。そしてポールが脱退を表明した翌5月に、本格的にレコーディングを開始する。
ジョージには、兼ねてから構想していたソロアルバムのアイデアがあった。アルバムのためにストックしてあった曲はおよそ40曲、ポールとジョンという偉大なソングライターたちの存在によって、ビートルズでは日の目を見なかった曲たちだ。
それらを完成させるにあたって、ジョージが手本にしたのはザ・バンドだった。1968年の秋にボブ・ディランがいるウッドストックを訪れたジョージは、一緒にいたザ・バンドのメンバーが、誰が主導権をとるわけでもなく、対等な関係でアイデアを出しながら曲を完成させていくのを見た。そしてこれこそ、バンドの理想だと感じた。
一方のビートルズでは、曲を作ったメンバーが主導権を握っていたため、ジョージが何かアイデアを出しても却下されるのは日常茶飯事だった。そうした日々の中で、ジョージは不満を募らせていたのだ。
ソロアルバムのレコーディングには、親交の深かったエリック・クラプトンをはじめ、リンゴ・スターやビリー・プレストン、アップル・レーベル所属のバッドフィンガーほか、30人近いミュージシャンが参加した。プロデュースはフィル・スペクターが務めた。
ジョージはセッションを楽しみながら、積極的に彼らのアイデアを取り入れていくというプロセスで、曲をカタチにしていった。
5ヶ月を費やしたレコーディングが終わったときには、アルバム1枚には到底収まらないほどの曲が完成していた。アルバムはそれら全てを詰め込んで、当時としてはかなり珍しい3枚組という大ボリュームとなり、『オール・シングス・マスト・パス』と名付けられた。
「全てのものは過ぎ去っていく」という、諸行無常にも通じるそのタイトルは、ジョージが傾倒していたインド哲学の思想の影響を感じさせる。
1970年11月27日にリリースされた『オール・シングス・マスト・パス』は、全英全米ともに1位になっただけでなく、シングルカットされた「マイ・スウィート・ロード」も世界10カ国以上で1位を獲得するという、世界的な大ヒットを記録した。今では「1970年代の幕開けを飾るロックの金字塔」とも呼ばれている。
ジョージ・ハリスンが、ビートルズの元メンバーの中で誰よりも早く大きな成功を掴んだのは、“静かなるビートル”として過ごした日々が、糧になっていたからかもしれない。
このアルバムを3枚組にした理由について、ジョージはのちにこう述べている。
「あとから思えば捨てていいものもたくさんあったけど、でも僕は全部やってみたかった。自分の遅れを取り戻すためにね」
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