1942年12月30日。ベニー・グッドマン楽団のライブと、ビング・クロスビー主演のミュージカル映画『スター・スパングルド・リズム』が、ニューヨークのパラマウント劇場で開幕した。
客席の空気がいつもとかなり違うことを肌で感じながら演奏を終えたベニー・グッドマンは、気乗りしない様子でその日の特別追加出演者を極めて事務的に紹介した。
「では、続いての登場は…フランク・シナトラ!」
同じ舞台に立っていたコメディアンのジャック・ベニーは、その時のことをこんな風に回想している。
「その日は私のジョークに反応するいつもの客層の中に、ティーンエイジャーの女の子が多いことに気づいたよ。シナトラが紹介されると、耳をつんざかんばかりの大歓声と拍手が5000席を埋めつくした会場からいっせいに沸き起こったんだ!」
それまで席に座っていた観客たちは立ち上がり、椅子に乗ったり通路で跳ねたりして大混乱に陥ったという。まるで劇場が倒壊したか、天変地異でも起こったかのような騒ぎだった。伴奏のスタートに備えて客席に背を向けていたベニー・グッドマンは、挙げた両腕をそのままに…凍りついた表情で一言。
「これは一体何なんだ」
この異常とも言える歓迎の嵐を目の当りにして驚いたのは、ベニー・グッドマンだけではなかった。27歳を迎えたばかりのシナトラも、ニューヨークでの大舞台とあって硬直して一歩も動けなくなっていた。何とか緊張を振り切り、やっとのことでステージ中央に進み、「For Me and My Gal」を歌い出すことができたという。
それは後に、エンターテインメント界の帝王“ザ・ヴォイス”と呼ばれることとなる男が歴史を塗り替えた瞬間だった。それまでベニー・グッドマンを頂点として全盛を誇ったビッグバンドの時代の終焉と、シナトラを端緒とするソロシンガー時代の到来を告げる象徴的な出来事となった。
──さかのぼること1935年、シナトラは20歳の時に地元のイタリア人ボーカルトリオ「ザ・スリー・フラッシズ」に参加。「ホーボーケン・フォア」としてラジオ出演や全米巡業(ただし他のグループ・コメディアンも一緒の一座であり、レストランなどの店頭などで歌った)などを行った後に脱退した。
この頃よりニュージャージー州やニューヨーク州、イリノイ州などを拠点とし、レストランなどを牛耳っていたイタリア系マフィアとの関係が深かったといわれている。
その後バーのラウンジで歌っていたところを見出され、1939年には当時大衆的な人気が高かったトランペッター、ハリー・ジェイムスの楽団「ミュージック・メイカーズ」の専属歌手としてプロデビューを果たす。
25歳を迎えた1940年には、当時人気のあったトロンボーン奏者トミー・ドーシー・オーケストラに引き抜かれ移籍して大活躍。10代の女性を中心にシナトラの人気を決定的なものとした。この移籍にまつわるエピソードが、後にマフィアを描いた映画『ゴッドファーザー』で描かれていることも有名である。
シナトラは入団した直後のトミー・ドーシー・オーケストラのレコードは、まずトミー・ドーシーのトロンボーンが1コーラス演奏し、次にシナトラが1コーラス歌うといった構成だったが、しだいに曲の導入からシナトラの歌が入るアレンジが増えてきたという。このあたりからもシナトラ人気の上昇ぶりが見てとれる。
「一体誰のバンドなんだ!」
トミー・ドーシーは内心穏やかではなかった。次第に独立する気持ちを固めていったシナトラはトミー・ドーシーを説き伏せて、1942年1月19日に初めて自分名義のレコーディングを行なったという。
選ばれた曲は、マッド・デニスの「The Night We Called It A Day」、ホーギー・カーマイケルの「Lamplighters Serenade」、ジェローム・カーンの「The Song Is You(歌こそは君)」、コール・ポーターの「Night And Day」の4曲だった。
シナトラはレコーディングの間、的確な指示と自信のある態度でオーケストラをリードし、スタジオにいた全員を感服させたという。
<引用元・参考文献『シナトラ〜My Way of Life〜』三具保夫(駒草出版)>

エッセンシャル・フランク・シナトラ&トミー・ドーシー楽団
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