2001年5月12日、フランク・シナトラと並ぶ大物エンターテイナーとして多くのテレビ番組やステージで活躍したペリー・コモ(享年88)が、フロリダの自宅で静かに息を引き取った。
死因は老衰と発表された。
ペンシルベニア州キャノンズバーグでイタリア系アメリカ人の家庭に生まれた彼。
同じイタリア系のシナトラやトニー・ベネットとは違い、マフィアとの関係がなかったことも彼の魅力(人気を集めた理由)のひとつだった。
11歳から理髪店の見習いとして働いており、14歳のときにすでに自分の店をもっていたという。
町の歌声コンクールで優勝したことをきっかけで、本格的に歌手を目指すようになる。
ビング・クロスビーに憧れていた彼は、1933年(当時21歳)にフレディ・カーロン楽団に参加してステージデビューを果たす。
1936年にはテッド・ウィームズ楽団に移り“歌う床屋さん”と呼ばれ注目を集めるようになる。
1942年、楽団の解散と同時にソロ名義でのキャリアをスタートさせる。
以降、ナイトクラブへの出演やCBSラジオの番組で人気をよび、翌1943年(当時31歳)にRCAレコードと契約を交わす。
1945年にリリースした『Till The End of Time(時の終わりまで)』がミリオンセラーとなり、彼は遂にスターの座を手に入れる。
同時期に『サムシング・フォー・ザ・ボーイズ』(1944)、『ドール・フェイス』(1945)など3本の映画に出演。
1948年から1963年までNBCテレビ(1950~55年はCBSテレビで放送)で『ペリー・コモ・ショー』に出演し、その歌唱力と温かい誠実な人柄から“ミスターC”という愛称で幅広い層に親しまれた。
1950年代には「Papa Loves Mambo(パパはマンボがお好き)」(1954)、「Hot Diggity」(1956)のようなコミカルな歌謡曲を数多くリリースし、老若男女からの支持を集める。
1970年にはラスベガスのインターナショナルホテル(現在のヒルトンホテル)に出演し、当時大きな話題となった。
エミー賞(1954・55年度最優秀男性歌手賞、56年度最優秀パーソナリティ賞など)を5回受賞。
1958年のヒット曲『Catch a Falling Star』では、同年度に開始されたグラミー賞の最優秀男性歌唱賞を受賞した。
1960年代後半にセミリタイアするが、1970年代に復帰して世界ツアーも展開している。1973年には、ドン・マクリーンが書いた名曲「And I Love You So」をカヴァーし、英国で年間ランク14位を記録。
晩年は1987年(当時75歳)までRCAで録音を行い、生涯のヒット曲は約160曲、うちミリオンセラーは20曲以上に上る。
デビュー当時から40年以上に渡り同じレコード会社(RCA)に所属した。
このように長期間同じレコード会社にいることは、待遇アップなどの条件で会社を移籍するのを常識としたアメリカにおいては非常に珍しく、国内外問わずファンに誠実な印象を与えた。
僕も君を愛してる
皆はこう僕に聞くんだ
今までの人生はどんなだった?
僕はわからないよと答えるけど
皆はわかってると思う
どんなに寂しい人生だったかを
でも新しい人生が始まったんだ
君が僕の手を取った日から
人生という本は短く
一頁は一度だけ読むことができる
愛以外は全て死んでいる
そう僕は信じてる