1960年代に日本でもブームとなったフレンチポップス。
その中心にいたシルヴィ・バルタンが1965年に来日を果たしたときには、空港に千人ものファンが押し寄せる騒ぎになった。さらにはCM「レナウン イエイエ」にも起用されるなどで、日本人にも身近に感じられたこともあって高い人気を集めた。
そしてこの時代を振り返る上でもう一人忘れてはならないのが、シルヴィの1年後に来日を果たして「夢見るシャンソン人形」をヒットさせたフランス・ギャルだ。
本名、イザベル・ギャルがパリで生まれたのは1947年である。父親が作詞家という音楽一家で育ったイザベルは、16歳のときに父親がレコード会社に売り込んだことがきっかけで、レコードデビューを果たした。しかし、すでにイザベルという人気シャンソン歌手がいたため、名前はフランス・ギャルに変えられてしまった。
この名前は父親か、あるいはプロデューサーがフランス対ウェールズのラグビー中継をラジオで聞いていたとき、「フランス・ギャル」というフレーズが聞こえてきたのが由来とされている。
この場合の「ギャル(Galles)」は、フランス語でウェールズという意味だ。イザベルは冗談のようなこの名前に抵抗したが、結局はフランス・ギャルでデビューすることになった。
最初の転機が訪れたのは1965年だった。ヨーロッパ最大級の音楽コンテスト「ユーロビジョン・ソング・コンテスト」に、セルジュ・ゲンズブールが書き下ろした「夢見るシャンソン人形」で出場すると、見事グランプリに輝いたのである。
2人の名前は一気に世界中に広がり、瞬く間に時の人となっていった。
その後も何曲かはヒットしたフランス・ギャルだったが、ゲンズブールの歌詞が過激になっていったことや、アイドルを演じることに抵抗を覚えていったことなどから、次第に曲が売れなくなってしまう。
それからしばらくの月日が過ぎた1973年のある日、フランス・ギャルはたまたま耳にした「Attends-moi(僕を待っていて)」という曲に心を奪われた。この曲を歌ったのはシンガー・ソングライターのミシェル・ベルジェだった。
ミシェルはフランス・ギャルと同じ1947年に生まれて、フランス・ギャルと同じ1963年にシンガーとしてデビューを果たしていた。
ヒットには恵まれなかったミシェルはその後、作曲の才能を買われてレコード会社専属のプロデューサー兼ソングライターになった。しかし、キャロル・キングをはじめとしたソングライターたちが、70年代に入ってアメリカで大きな成功を収めていったことから、ミシェルもまたシンガー・ソングライターとして自身の作品を発表し始めたのだ。
どうしてもミシェルに曲を書いてほしい、ミシェルの曲を歌いたいと思ったフランス・ギャルは、何度かアプローチをかけた。そして半年後、ミシェルのアルバムにボーカルとして参加することになる。
実際にフランス・ギャルと共演しじたミシェルは、シンガーとしての魅力を感じて要望に応えることにした。1974年にリリースされた「La Déclaration d’amour(愛の宣言)」は、全仏チャートで17位と久々のヒットとなる。
フランス・ギャルとミシェルはその後、アルバム制作に取り組みはじめる。このときフランス・ギャル27歳、ようやく過去のイメージから解放されて新たな道が拓けようとしていた。
1976年にリリースされたソロ・アルバム『France Gall』は、かつてのアイドルとしてのイメージを払拭し、大人のラヴソングを歌う新しいフランス・ギャルの魅力を世間に知らしめた。
そしてこの年に結婚して公私共にパートナーとなった2人は、80年代になると次々とヒット曲を連発し、ほんとうの黄金時代を築いていくのである。
(2018年1月22日に一部修正いたしました)
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