TAP the DAY

27歳になったちあきなおみは、本当に歌いたい歌を求めて長い旅に出た

2015.10.23

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1974(昭和49)年10月22日と23日の2日間、東京・中野サンプラザホールでは「ちあきなおみリサイタル」が開催された。

演出はTBSの音楽番組のプロデューサーだった砂田実、構成作家が松原史朗、アレンジャーには宮川泰、伴奏はビッグバンドの高橋達也と東京ユニオンに、60人ものストリングスが加わった大編成だった。

当代一流のスタッフが揃って十分な時間と手間とお金をかけた、その渾身のリサイタルは自叙伝とも思わせる書き下ろし曲、「私はこうして生きてきました」(作詞:松原史朗 作曲:森田公一)で始まった。

生まれは東京坂橋で
幼い時から母ひとり
父と言う名のその人の
顔の形も知りません

四ッの時に初舞台
拍手を受ける嬉しさと
お金をかせぐ難しさ
いやと言うほど知りました

~「私はこうして生きてきました」


ちあきなおみリサイタル1974_1022

1969年に「雨に濡れた慕情」でレコード・デビューしたちあきなおみは、わずか5歳の時に「白鳩みえ」の芸名で、アメリカ軍のキャンプをまわるちびっ子タップダンサーの仕事についた。

マネージャーとなる吉田尚人と出会って、彼が興した「三芳プロ」に所属して本格的な歌手活動に入ったのが13歳の時で、「五城ミエ」の名でジャズ喫茶でロカビリーやポップスを歌った。
それからは地方を廻って前座歌手を務めるなどの下積み時代が長く続き、10代半ばには演歌のレッスンにも2年ほど通った。
その頃は「南条美恵子」の名で、盛り場の流しまで経験した。

老舗のレコード会社だったコロムビアのポップス部門から、レコード・デビューが内定したのは20歳の頃だった。
そのときに師事することになった作曲家の鈴木淳から、演歌を歌うことは固く禁じられた。

最初の課題は、演歌風のコブシを一切出さずにストレート・ボイスで歌うこと。そのために「これから1年間、絶対に演歌を歌わない!」という約束をさせました。
ストレート・ボイスの練習曲は西田佐知子の「東京ブルース」や「アカシヤの雨がやむとき」など。
さらにジャズシンガーのヘレン・メリルやジュリー・ロンドンの歌が「なぜ、聴く人の心にしみるのか?」など、1年半にわたって明けても暮れても同じレッスンを繰り返したのです。(注1)


鈴木淳が書いたデビュー曲「雨に濡れた慕情」はジャジーな都会調のポップスで、まずまずのヒットになって順調な滑り出しとなった。
だがその後の曲が期待したほど売れなかったことで、若い女性のセクシーさを前面に打ち出したアイドル路線に変更がなされた。

img_0四つのお願い

b0100078_2047042XYLOVE

本人にとっては不本意な変更だったことは、それから30年後にこう語られている。(注2)

(「雨に濡れた慕情」については)こういうデビュー曲でよかったわと思っていたんですけど、それが「四つのお願い」で、ああ、こりゃダメだ、この曲で私も終わりだと思った(笑)。
私はどうも根が暗いせいか、ああいう明るい歌はダメなんですよ。


ところがその明るいセクシー路線の「四つのお願い」と「X+Y=LOVE」が連続ヒットしたことから、念願だった『第21回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たした。
本人が望むものとまわりが望むものとのギャップは、この時期から早くも顕著になっていたのだった。

人気歌手の仲間入りをしてから2年後にはドラマティックな名曲、「喝采」によって1972年の第14回日本レコード大賞を受賞した。
そこから「劇場」や「夜間飛行」など、ノンフィクション的な歌詞の作品を歌うようになった。

見てくれましたか お母さん
ライトを浴びて幕が開き
舞台で歌う「喝采」は 
うれし涙の歌でした

~「私はこうして生きてきました」



41SSCXVEJELねえあんた


リサイタルで初めて披露された「ねえあんた」(作詞:松原史朗 作曲:森田公一)は、心根のやさしい娼婦と客のやりとりを一人芝居の歌で表現した大作だ。
それは後世にまで、名唱として語り継がれることになった。

一人の女性歌手の半生記をエンターテイメントに仕上げたこのリサイタルが、ひとつの区切りになったのは間違いない。

ちあきなおみは自身のヒット曲や野心的なオリジナル曲を柱としながら、「人生の並木路」やシャンソン、ジャズのカヴァーなども交えて、フィクションとノンフィクションの境目を演じた。

9月17日で27歳になったばかりだったちあきなおみは、ここからほんとうに自分が心からうたいたい歌を求めて、長い旅の第一歩を踏み出していくことになる。

ひとりになると考える
今の私は何処にいる
何がしたいの 明日から
何が欲しいの 今日の今

~「私はこうして生きてきました」


しかし本当に歌いたい歌だけを歌うという立場を得て、アーティスティックな姿勢で活動が出来るようになるまでには、日本の芸能界特有の壁や障害がいくつも待ち受けていたのである。

(初公開日時: 2014年10月22日)



(注1)引用元日刊ゲンダイ2012年7月30日「僕の愛した歌たち 作曲家 鈴木淳」
(注2)引用元「広告批評」1989年1月号


ちあきなおみ『ちあきなおみ リサイタル(1974年 中野サンプラザ)』
コロムビアミュージックエンタテインメント

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